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東京高等裁判所 昭和24年(行ナ)3号 判決 1949年12月05日

原告 佐々木正泰

訴訟代理人 松永芳市 外九名

被告 最高裁判所裁判官国民審査管理委員会委員長 山下義信

訴訟代理人 古井喜実

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一、原告の請求の趣旨及び請求の原因

原告及び同訴訟代理人(以下単に原告という)は請求の趣旨として、昭和二十四年一月二十三日に行われた最高裁判所裁判官国民審査は無効である。訴訟費用は被告の負担とするとの判決を求め、

一、請求の原因として主張する要領は、

(一)被告は最高裁判所裁判官国民審査管理委員会(以下単に委員会という)の委員長であり、原告は肩書地に居住し、衆議院議員選挙権並びに最高裁判所裁判官国民審査権を有し、昭和二十四年一月二十三日東京都目黒区第三投票所で衆議院議員選挙並びに最高裁判所裁判官国民審査の投票を為した者である。

(二)被告は昭和二十四年一月二十三日の衆議院議員の総選挙の期日に行われる最高裁判所裁判官国民審査について、最高裁判所裁判官国民審査法(以下単に審査法という)第二条第一項及び第五条の定めに従い、昭和二十三年十二月二十七日の官報に、その審査の期日と審査に付される裁判官の氏名とを告示した。

(三)最高裁判所裁判官国民審査管理委員会が国民審査の事務を行うには、審査法第七条、第八条、第十条、第十二条、第十九条、第十三条の定めに従うのであるから、衆議院議員選挙のために設けられた機構と設備が、全面的に最高裁判所裁判官国民審査(以下単に国民審査又は審査という)に利用され、衆議院議員選挙の投票所において、その投票と同時に行われた。

(四)従つて、(1) 各投票所では、衆議院議員選挙に出た各選挙人に対してすべて一様に、審査法第十四条の定めに基いて、都道府縣選挙管理委員会で作られた、審査に付される裁判官に対する×の記号を記載する欄を設けた審査投票用紙を、衆議院議員選挙投票用紙と共に交付し、(2) 審査法第十五条の趣旨に従つて、各審査人に対し、罷免を可とする裁判官については、投票用紙の当該裁判官に対する記載の欄に×の記号を書き、罷免を可としない裁判官については、何等の記載をしないことを説明し、(3) 審査法第十三条を文字通りに解釈して、可否の解らない者でも、投票用紙を持ち帰ることなく、そのまま衆議院議員選挙投票用紙と一緒に、投票箱に投入させた。

(五)被告は、かくして行われた投票の結果を、各審査分会から報告を受け、その報告に基いて、昭和二十四年二月三日午後一時半、東京都千代田区霞ケ関全国選挙管理委員会事務局で、被告が審査長となり、審査会を開いてこれを調査し、全裁判官が罷免を可とされなかつたことに決定して、その次第を委員会に報告した。

(六)およそ最高裁判所裁判官を国民審査に付するに当つては(1) 審査人に対して、先ず裁判官について罷免の可否を知るか、知つているならばこれを可とするか、或は可としないか、という三個の問を発し、この問に対して各審査人の良心に基く自由な投票を求め、罷免の可否の解らない審査人に対し、解らないという意見を発表し、又はこれに関する意見の発表を留保するいわゆる黙秘の投票を定め、罷免の可否の明かな票数によつて、その罷免の可否を決すべきものであつて、罷免の可否を知らない者の投票を、罷免の可否を決すべき票数に加えるべきものではない。(2) 然るに今回行われた審査においては、衆議院議員総選挙投票所に出席した全選挙人に対し、審査法第十四条に定められた、各裁判官に対する×の記号を記載する欄の設けてある投票用紙を交付し、同法第十五条の定めに従い、罷免を可とする裁判官については、投票用紙の当該裁判官に対する記載の欄に、自から×の記号を記載し、又罷免を可としない裁判官については、投票用紙の当該裁判官に対する記載の欄に何等の記載をしないで、これを投票箱に入れさせたので、罷免の可否を知らない過半数以上最大多数の審査人は、全く可否を知らないという意見を表現する方法を奪われていた。(3) 又審査法第十三条は、「審査の投票は衆議院議員総選挙の投票所において、その投票と同時にこれを行う。」と定め、衆議院議員選挙人に対し、悉く審査の投票用紙を交付し、その持ち帰りを禁じているので、全国の各投票所では、罷免の可否を知らない各審査人に対して、入場者の数と投票数とが合わなくなる旨と、罷免の可否を知らない場合は、そのまま投入することになつている旨とを説明し、衆議院議員選挙投票用紙と一緒に投票箱へ投入させた。(4) 更に審査の投票の結果は、審査法第三十二条に基いて、昭和二十四年二月三日に行われた審査会において、罷免を可とする票と罷免を可としない票との二種類に区別計算されたので、罷免の可否を知らないため、何等の記載をしないで投票した各審査人の意見(票)に対しても、罷免を可としないという法律上の効果を付されたのであつて、言わば、かかる審査人の意見とは全く異なる結果に用いられたのである。

(七)又今回行われた国民審査の際、交付された投票用紙には、十四名の裁判官の氏名が連記されていたため、一人又は数人の裁判官について、信任又は不信任の投票を行わんとする審査人は、好むと好まざるとにかかわらず、その他の裁判官に対する意見の発表を余儀なくされた。しかも審査人のうち、全部の裁判官について、その任命の適否の事由を知る者は皆無に近い現状において、斯くの如き連記の投票用紙を用いて、審査の投票を行わせることは、審査人に対して、任命の適否の解らない他の裁判官に対する任命の適否に関する意見の発表を、強制することの甚しいものであつて、憲法第十九条、同第二十一条第一項で保障された思想及び良心の表現の自由を奪うことの顯著なものである。従つてこの点に関する審査法第十四条第一項の規定は違憲の立法であり、この法律の下に行われた今回の国民の審査はまた当然無効である。

(八)日本国憲法第十九條は、われら国民に対して、思想及び良心の自由を不可侵のものとして与え、同法第二十一条は、われら国民に対して、これら思想及び良心の表現の自由を保障している。即ちわれら国民は、(イ)公共の福祉に反しない限り、思想及び良心を意のままに表現する自由と、(ロ)思想及び良心の表現を強要されない、いわゆる沈黙を守る自由と、(ハ)自由な思想及び良心の表現でなければ、これに対し義務を負わされ又は法律上何等の効果を付されることがないという三つの面の保障を受けているのである。従つて、今回の審査において審査人に審査法第十四条に定めた投票用紙を交付し、同法第十五条に定めた方法をもつて投票させたことは、審査人から思想及び良心の表現の自由を奪つたことに当り、又審査法第十三条に基いて、各投票所において、衆議院議員の選挙人に対し、悉く審査の投票用紙を交付しその持ち帰りを禁じて投票を余儀なくせしめたことはこれらの審査人に対し、思想の表現を強要したことに当り、更に又審査法第三十二条の定めによつて、罷免の可否を知らないで投じた票を罷免を可としない票数に加算したことは、審査人の自由な意見の表現でない行為に対して、審査人の意思と異なつた法律上の効果を付したことに当り、いずれも憲法上われら国民に保障された思想及び良心の表現の自由を侵犯したものである。この点で、審査法そのものが違憲立法として無効であり、従つてこの審査法のもとに行われた今回の審査は無効である。

(九)憲法第六条第二項、同法第七十九条第一項の規定に基く最高裁判所裁判官の任命は、同法第七十九条第二項の定めによつて、「任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員選挙の際更に国民の審査に付し、その後も同様とする。」という条件の下に行われるのであつて、国民審査の結果、その任命を可とすれば、その時から十年間確定する効力を生じ、これに反して任命を不可とすれば、これに罷免の効果が付せられるのである。国民審査の前に、一応任命というものはあるが、これは暫定的のものであつて(国民審査までという暫定的のもの)確定的のものではない。従つて、国民審査は任命を確定的のものにする一種の条件ではあるが、民法にいわゆる条件ではない。しかし任命を確定的のものにする絶対的必要要件であつて、この要件を充足し、審査の結果がその任命を可とされることにより、任命がその時に確定し、審査の結果がその任命を不可とされることにより、暫定的の任命は將来に向つて否定され、当該裁判官は罷免されることになるのである。要するに、最高裁判所の長たる裁判官の任命は、内閣の指名と天皇の任命と国民審査によつて確定し、その長たる裁判官以外の裁判官の任命は、内閣の任命と天皇の認証と国民審査によつて確定する。又両者を通じて任命を可としない投票の数が、任命を可とする投票より多い裁判官は、暫定的地位より追放されいわゆる罷免が確定するのである。

国民審査の本質は、右述べたように任命の可否を国民に問うものであつて、罷免を可とする裁判官を選定する制度ではない。もし審査法が罷免を可とする裁判官を選定する趣旨のもとに制定されたものとすれば、憲法第七十九条第二項の規定の解釈を誤つたもので、この点において違憲の立法であり、この違憲立法の下に行われた今回の審査は当然無効である。

(一〇)原告は本件異議の訴を、審査法第三十六条の規定に基いて提起するのであるが、同法第三十三条の規定から解して、罷免を可としない審査に対しては、異議の訴が許されていないという解釈も成り立つのであるが、もしそのように解されるならば、審査法は、審査人が、憲法第十五条第十六条で与えられた公務員の罷免に関する事項について、憲法第三十二条で奪われることのない権利であるとして、われら国民に与えられた裁判を受ける権利を侵犯したもので、結局審査法は無効の法律である。

(一一)又今回の審査に当つて、(1) 審査人である国民に配布された審査公報には、審査を受ける裁判官十四名中、三淵忠彦、沢田竹治郎の二名を除き、他の十二名については、その取扱つた裁判事件に関する裁判上の意見を記載していない。(2) そもそも審査については、憲法第七十九条第四項に、「審査に関する事項は、法律でこれを定める。」と規定されて居り、その法律は審査法であり、審査公報は、同法第五十三条及び同法施行令第二十六条乃至第三十一条によつて発行配布されたものである。審査公報を発行し審査人に配布する理由は、裁判官に対する正しい判断の基礎資料を与えるにある。最高裁判所裁判官の任命は、内閣がこれを行うのであるが、その後において国民の審査に付するのは、かかる方法で、公選と同一の民主的基礎を与えようという趣旨に外ならない。であるから審査の方法は、あくまでも広く民意に問うという主旨のもとに考究されなければならない。その方法の中でもつとも根幹をなすものは、被審査人である裁判官はいかなる人物かということを判断させる資料の提供であつて、国民が、裁判官の経歴その他いかなる裁判をしているか等の知識を持つことが必要であり、審査人たる国民が何の知識もなく軽々に審査権を行使することは危險であり有害である。裁判所法第十一条において、最高裁判所の裁判官は、裁判に対する意見を表示する義務がある旨の規定があるのは、国民審査の大目的に副うためであり、その目的のために設けられたのが審査公報の制度であつて、公報は判断の基礎資料たることを唯一無二の使命としているのである。(3) 審査公報の記載について審査法第五十三条には、「審査に付される裁判官の氏名、経歴その他審査に関し参考となるべき事項」と定め、又同法施行令第二十六条第一項には「審査公報には、審査に付される裁判官の氏名、生年月日及び経歴並びに最高裁判所において関与した主要な裁判その他審査に関し参考となるべき事項を掲載するものとする、」と定めているが、その他参考となるべき事項とは何を指すかというと、先ず第一にその裁判官が取扱つた事件に対する考え方即ち意見の表明を挙げなければならない。その裁判官がいかなる法律知識を持ち、どの程度の社会常識を備えているか、裁判官として適任かどうかを判断する資料としては、その裁判官の取扱つた裁判事件における意見の表明を必要とし、又これ以外には求め得ないのである。当時、読売新聞(昭和二十四年一月七日)毎日新聞(昭和二十四年一月十三日)が、各裁判官の経歴写真等の外に、主要判決に対する各裁判官の意見を掲げているのは、審査に関する国民の要望に応え、目的達成に協力しているのである。(4) 然るに今回の審査に当つて発行配布された審査公報には、三淵、沢田の両裁判官を除く他の十二名の裁判官については、その裁判上の意見を何も記載していない。公報の記載によれば、全裁判官に共通の取扱事件たる、昭和二十二年(れ)第七三号事件(いわゆるプラカード事件)があるが、前記二名の裁判官を除く他の十二名の裁判官の意見に何の記載もなく、従つてその意見を通じてその裁判官の持つ思想を推測し、最高裁判所の裁判官としての適否を判断する資料は与えられなかつたのである。(5) 審査公報は、発行と配布とを法的に強制され、全国的普遍的の性格を持つものであるが、それがこの制度の主要目的を逸脱欠如しては、到底憲法の所期している審査目的を正しく達成することはできない。国民審査のために制定された法律乃至政令は、審査の目的を達成するように定められているのであるから、これらの法令が目的を達するように運用されなかつたならば、それ自体法律違反になるのであり、今回の審査は無効に帰する外はないのである。(6)裁判所法第十一条には、最高裁判所裁判官の意見を表示することを義務としているが、審査法乃至同法施行令にはこの種の規定がない。唯、施行令第二十七条第一項に、審査に付される裁判官は、審査公報の掲載文を提出しなければならない定めになつているが、同条第二項の文字から見ると、この掲載文提出も強制できないようである。そこで掲載文の提出がないときは、委員会において掲載文を調製しなければならないのであるが、この「掲載文の提出がないとき」というのは、全く掲載文の提出がないときのみならず、提出があつても重要事項の記載が欠けているときも、提出がないときと解すべきであつて、委員会はこの場合、補充又は別個の掲載文を作成してその旨を附記しなければならないのである。掲載文の提出があつても、その裁判官の裁判上の意見の表示が欠けていれば、結局重要な事項の記載を欠いていることに帰着する。従つて掲載文の提出があつても、裁判官の裁判上の意見が記載してないときは、これが記載を要請し、これに応じない場合は、施行令第二十七条第三項によつて、資料の提出又は事実の説明を要求し、同条第二項により掲載文の補充又は別個の掲載文を作成し、その旨を附記すべきである。かくすれば国民は、裁判官提出の掲載文と附記のある補充又は別個掲載文等を比較檢討することによつて、結局裁判官としての適否を判断する重要な資料となるのである。又委員会は、施行令第三十三条によつて、意見表明を「審査公報の発行手続に関し必要なる事項」の一項目として指定することもできるのである。然るに今回の審査公報は、法律の趣旨に反し違法に作成されたものであるから、かかる審査公報の下に行われた審査は全部無効である。

二、なお被告代理人の抗弁に対し左の通り附加した。

(一)最高裁判所裁判官に対する国民の審査は、天皇又は内閣の手で行われた裁判官の任命又はその地位の継続の可否を確認し又は否認する制度であつて、リコールの制度ではない。(イ)国民審査は、憲法第十五条に定められた「公務員の選定」の権利行使であつて、同條後段に規定する「これを罷免すること」の権利の行使ではない。即ち審査は任命について行われるものであつて、任命された裁判官の罷免を直接の目的とするものではない。(ロ)憲法第十五条に由来する「公務員の選定権」は本来ならば国民自身の手によつて行わるべきであるが、これは技術上不可能であるため、憲法第六条第二項、第七十九条第一項の規定を設け、天皇又は内閣にその任命を付託し、主権者である国民はその任命の可否を審査することと定められたのである。(ハ)従つて任命は、国民の付託に基く天皇又は内閣の手に依つて一応完成されるが、然しこれらの者の任命は、任命後初めて行われる衆議院議員の総選挙の際に、国民の審査に付されるという条件が附けられる。この條件の成就することによつて、或は任命が十ケ年間動かすべからざるものとなり、又は特定の裁判官が罷免される結果を生ずるのである。(ニ)国民審査は、將来に向つて裁判官である地位を認め又は否認するものであるから、審査の結果、その任命を否認されても、その効力は將来に向つて当該裁判官の罷免の効力を生ずるのであつて、さかのぼつてその任命が無効になるものではない。従つてまた、罷免された裁判官のした判決は無効となるものではない。(ホ)裁判官に対する「任命の適否の事由」は、任命の前であると任命の後であるとを問わず「審査の時」までにおける一切の事由に基いて為されるのである。なお国民審査の制度が、任命の可否を問う制度であつて、罷免を可とする裁判官を選定する制度でないことは、(い)憲法第七十九条第二項によつて明記されている通り、既に任命された各裁判官の任命が可か不可かを国民に問う制度であることは明かであること。(ろ)審査法第十五条の規定が、罷免を可とする裁判官についての記号の記載方法と共に、「罷免を可としない裁判官については、(中略)何等の記載をしないで、」と明記し、国民審査は、審査人に対し、任命の可否を、罷免の可否という形式で問うていることが明かであること。(は)投票用紙や注意書にもすべて「やめさせなくてよいと思う裁判官については何も書かないこと」と記載又は掲示し、審査が単に罷免を可とする裁判官を選定するものでなく、積極的にやめさせなくてよいと思うか、又はやめさせるがよいと思うか、の意見を問うていることを明かにしていること等で明瞭である。

(二)(イ)被告は、投票用紙の持ち帰りを禁止する根拠は、審査法第十三条でなく、審査法第二十六条でその例によることとなつている衆議院議員選挙法第二十六条、第二十七条によるものであるというが、他の法律の規定を準用するのは、当該法律にこれに関する規定のない場合であつて、当該法律中に、これに関する規定があれば先ずその規定を適用するのが当然である。審査法第二十六条もこの趣旨を明かにしている。而して右選挙法第二十七条は、審査法第十五条及び第十三条に相当し、即ち審査法第十五条、第十三条は、それ自体が投票所投票主義を宣言しているのであり、敢て右選挙法第二十七条の準用を待つものでないことは明かである。(ロ)又被告は投票用紙の持ち出しは許されないが、これが返還は禁ぜられるものとはいえないというが、審査法第十四条第三項で投票用紙公給主義を宣言し、第十五条、第十三条で投票所投票主義を宣言しているものとすれば、投票用紙は、それ自体が委員会の所有物であつて、審査人の所有物とはならない。審査人は、単にこれを選挙の目的のために使用し得るに過ぎず、交付された投票用紙は、必ず投票箱に入れなければならないことは当然であり、規定の明文上審査法は、強制投票主義に立脚するものといわなければならない。(ハ)又投票用紙の返還の許されないことは、前記審査法の各規定の明文上かく断定しなければならないが、もし返還を許すとすれば、審査法その他これらの附属法令準用法令に、その定めがなければならない。然るに法令中には投票用紙の返還手続並びに返還を受けた投票用紙の処理について何等の定めがない。(ニ)憲法第十五条に規定する公務員の選定及び罷免に関する国民固有の権利は、同第十二条においてその行使の責任を規定し、一面権利であると同時に義務であることを明かにし、憲法のこの趣旨を受けた衆議院議員選挙法第二十七条、参議院議員選挙法第三十三条において、投票所投票用紙記載方法等一定の投票方法を定め、更に審査法第十五条において、一定の投票方法につき命令語を用い、投票者の権利は一面権利であり他面義務なることを規定し、選挙人又は審査人に投票の義務あることを明かにしている。即ちわが国の選挙は、国民はすべて投票所へ出て投票を行う義務があるのである。この義務に制裁の規定又は強制の方法が定めてなくとも、その故をもつて選挙や審査が国民の自由であるとはいわれない。国民は、選挙や審査を義務であると信じて居る実状であつて、被告の投票用紙の受領拒否や返還の自由は成文に根拠がないが、選挙法又は審査法に禁止規定がないから、拒否や返還は自由であるとの主張は、法理を無視したものであつて、権利の抛棄は自由であるが義務の履行は自由がないというのは、古今の鉄則である。選挙又は審査が一面権利であり、他面義務であるとすれば、選挙法又は審査法に義務の履行を免除していない限り、国民は必ず投票をしなければならないのである。

(三)従来の衆議院議員選挙その他の選挙においては、投票所投票主義を嚴重に実施し、投票用紙を必ず投函させて来たが、これらの選挙においては選挙人は白票を投ずることによつて自由に棄権ができるので、何等思想及び良心の表現を強要抑圧されることなく、この点において何等の弊害がないのみか 煩雑な手続を設けて投票用紙を返還させるより、投函させる方が容易であり、手間がはぶかれるのである。被告は従来の選挙方法において、曽て違憲の論が出たことがないというがそれは「白票」をもつて、「候補者の中誰を選んでよいか判らない」という自由な意見の表現ができたからであつて、今回の国民審査のように何等の記載もしないで投じた票に対し、罷免を可としないという法律上の効果を付されたのとは雪泥の開きがあり、比較の対象となるべきものではない。

(四)原告の主張する、罷免の可否が解らないで何の記入もせずにそのまま投票したのに、罷免を可としないという法律上の効果を付したということについては、被告は可否不明という者の中二種類あつて、一は当初の任命を信頼して罷免を可としない者と、他は不明なるが故に棄権せんとする者である。現行制度は、強制投票でないから棄権もできれば投票もできる。その自由があるのに投票した者は、罷免を可としない投票をするだけの意思はあつたのだというが、(イ)今回の審査において、棄権を欲しながらも、棄権する方法が与えられなかつたために白紙のまま投票した者が、遥かに多数に上つている。人間は本来正を正とし邪を邪とする天性を有している。この人間性からいえば、知らないことは知らないと答えるのが通常であつて、知らないの故をもつて現状に甘んずる意見があつたという見方は、人間の天性を無視した擬制であつて本末顛倒も甚しい。(ロ)又罷免の可否を知らないために無記入の投票をした者が、原告のいう通り二種類あるとして、この両者を区別することのできない場合、その票に一方的に罷免を可としないという法律上の効果を付することも、又その逆の場合もできないことは、平等と公平の原則からいつて自明の理である。これ等の票は投票者の意思不明として法律上何等の効果を付すべきものではない。(ハ)又審査法の規定その他の方法により、白票を投ずれば罷免を可としないことになることは、審査人が承知して居たというが、それは審査人の全部でないのみならず、本来審査は「任命の可否」を問うのであるから、審査の形式もこれに相応する方法を採用すべきであつて、この憲法の精神を不明瞭にし、実質を表現しないような形式を採ることは許さるべきものではない。(ニ)今回行われた審査において、罷免の可否を知らずして白票を投じた者は、罷免さるべき事由の有無は愚か、裁判官の氏名すらも知らない者が絶対多数であつて、可否に対する意思決定の如きは露程も行われていない。従つて投票に対する法律上の効果を意欲されたものでないことは、いわずして明かである。仮に投票の効果を認識して投票した場合がありとしても、投票の効果を望んで為されたものと、投票を余儀なくされたものがあり、後者の場合には、少くとも法律上の効果を付することは絶対に許されない。即ち自由な意見の発表でなければ、法律上の効果を付与さるべきでないことは、憲法第二十一条の保障するところである。今回の審査において良心ある最大多数の審査人は、棄権の途が開かれていたら、棄権の途を選んだものと信ぜられる。(ホ)又被告は、可否不明の投票を認めるにしても、投票の処理としては、積極的に罷免を可とする投票と、然らざる投票との二に分類し、後者には罷免を可としない投票と可否不明の投票とを合せ、これを前者と比較せしむる方法に依るべきものであるというが、国民審査においては、積極的に罷免を可とする投票と不可とする投票との二つによつて決すべきであつて、罷免を可とするでもなく又不可とするでもない曖昧な意見の発表は、国民の意思として何ものも捕捉できない。かかる捕捉することを得ない消極的の投票に、可否いずれか一方の法律上の効果を付したならば審査は全く有名無実となるであろう。

(五)訴権は(イ)天賦の権利であつて、何れの国の憲法においても基本的人権の一として保障されている。わが国においても旧憲法第二十四条、又新憲法第三十二条にこれを明定している。従つて訴権は憲法を以て制限する外、法律を以てこれを制限することができない性質のものである。(ロ)然し人間の生活が複雑多岐になるにつれ、訴もまた複雑となるので、訴権を迅速且適確に運用するために、訴訟手続の制度が生れたのであるから、訴訟手続を定める法規に不備があるからといつて、訴権を否認することはできない。(ハ)新憲法は、旧憲法が行政訴訟を一つの行政権の自主監督の制度としていたのと異なり、その第七十六条で、行政訴訟から自主監督性を全面的に取去り、且つ第八十一条で最高裁判所に極めて広い権限を与えた結果、新憲法下においては、私権公権を通じその救済は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置された下級裁判所の専権に属することとなり、且つ裁判所法第三条は、これら憲法の趣旨を受け、「一切の法律上の争訟」と規定し、特に憲法で制限される場合の外、私法公法の別を問わず、争ある権利関係を確定する必要ある限り、一切これを司法裁判所に出訴し得ることを明かにした。而して憲法第十二条は、憲法の保障する自由及び権利についての国民の責任を定め、憲法第三章の自由及び権利について争がある場合は、その確定について、個人又は公共の利益のある場合は、その利益が独り個人的のものであると、その個人と共に公共の利益のある場合との区別なく、権利を主張し、その保護を求めることを許されることが明かとなつたのである。(ニ)審査法第三十六条は、訴訟事項と当事者と出訴期間と管轄裁判所の四項目を定めたものであるが、審査の効力に関する異議の事由を制限したものでない。従つて審査の効力を争うものである限り、同条により訴権を行使し得ること明かである。而して審査法第三十六条によつて、如何なる訴を起し得るかというに、凡そ訴訟の原理は、権利を害された者が、国家に対し侵害された権利の保護を求めるものであつて、自己の不利益な訴権の認められないのは勿論、自己の利害に関係のない他人の利益擁護のための訴の許されないことは、東西古今を通じての鉄則である。従つて同条の審査人が、罷免を可とされた裁判官のために、罷免を可とされた審査に対し、異議の訴の許されないことは勿論であるから、審査人の主張し得る異議は、罷免を可としない審査の結果に対し、その無効を主張する場合の外他に何ものもないのである。(ホ)審査法第三十三条には、罷免を可とされた裁判官がある場合のみ官報に告示することを規定しているから、今回の審査のように罷免を可とされた裁判官のない場合は、告示がないから三十日の出訴期間を明かにすることができないとの解釈が生じ、被告もかかる主張をしているが本来国民固有権に基いて審査を行わせながら、その結果について罷免を可とされた裁判官のある場合にのみ告示するというが如きは、非民主的の甚しいものであつて、いずれの場合を問わず、一般国民にその結果を告示し公表しなければならぬのは常識上当然であり、明文をまたずしてかく解すべきである。従つて審査法第三十三条は法文の不備であつて、このために審査人の訴権の行使が妨げられるものではない。法規の不備は解釈を以て補わるべきであつて、原告は審査のあつたことを知つた日から三十日以内に出訴できると解するものである。審査法第三十三条の規定の不備を理由として、訴権を制限しようとする解釈は、本末を逆にするものであつて、新憲法下においては許さるべきものではない。(ヘ)被告は、訴訟事項を立法政策によつて制限し得るように主張するが、これは訴権の本質上絶対に許されないことであつて、特に本件の訴権は、憲法第十五条によつて、国民に対し固有の権利として与えられた罷免権の行使に関するものであるから、被告のような見解は成立することを得ない。(ト)被告は仮に本件の訴が許されるとしても、その場合は、管轄は地方裁判所であるというが、審査法第三十六条は、審査の効力に関し異議ある場合は、東京高等裁判所に管轄権を認めたのであつて、苟くも審査の効力を争う場合は、その理由が審査法に基く場合は勿論、審査法そのものが違憲であることを理由とする場合でも、いずれも東京高等裁判所が管轄を有するのである。(チ)又審査法第三十六条が仮に無効であつても、それは同条のみの無効を来すので、審査法全部が無効となる道理がないと被告は主張するが、審査法第三十六条の規定を以つて、各審査人から一切の訴権を奪い、合法、非合法にかかわらず、審査法の実現を計る目的のために同条が制定されたときは、審査法制定の目的が憲法の精神に反するのみならず、その手段は奪うことのできない国民の訴権を奪うもので、手段目的共に憲法の精神に反し、審査法全体の無効を来すものである。(リ)被告は、本件訴の如きいわゆる民衆的訴訟は、裁判所法第三条の「一切の法律上の争訟」に含まれないから許されないというが、本件の場合は、今回行われた現実の審査の結果に対し、憲法並びに法律に違反するものありという具体的原因に基いて、審査の無効を主張するのであつて、単なる行政法規の適正な運用を確保するという、公益的行政監督的な立場からの訴ではない。而して審査人に対し、審査の効力に関し訴を起し得る権利を認められたことは、審査法第三十六条の定めるところであり、憲法第三章で保障された自由並に権利は、国民不断の努力によつてこれを保持しなければならないことは、憲法第十二条に明定するところであるから、自己の利害に関係のあるこの自由並に権利を侵害された場合、日本国民である以上、自己並に共同の利益のために如何なることでも訴によつて回復を計り得ること明かであつて、これを制限した憲法の規定はない。即ち各人は自己の利益のある限り、その利益は独り私法上の利益たると公法上の利益たるとを問わず、又自己の利害に関係ある限り、単独の利益に限らず共同利益のためにも訴を許されるものと解さなければならない。

三、以上原告が請求の原因として主張する根拠は、結局左の要点に帰着し、その他はその理由の説明である(昭和二十四年三月二十八日及び九月十二日口頭弁論調書)。

(一)法律上の主張

(1)最高裁判所裁判官国民審査法に定められた投票の方法に関する規定(即ち第十三条、第十四条第二項、第十五条第一項、第十六条第一項、第二十二条)は

(イ)裁判官について、罷免を可とするかしないか解らない審査人に対し、解らないという意見を発表し、又これに関する意見の発表を留保する、いわゆる黙秘の投票方法を定めなかつたこと(即ち罷免の可否いずれにも属しない投票方法の定めがないこと)。

(ロ)衆議院議員の選挙に臨んだ選挙人に対し、悉く審査の投票用紙を交付してその持ち帰りを禁止し、依つて以て罷免の可否を知らないため投票を欲しない者に対しても、罷免の可否いずれかの投票を強制していること、又投票用紙は裁判官全員を連記してあるため、一人又は数人の裁判官についてのみ、罷免を可とするかしないかの投票をしようとする審査人は、その他の裁判官についても、投票をすることを余儀なくされていること。

(ハ)審査人のうち、罷免の可否が解らないで、何の記入もせずそのまま投票したのに対し、罷免を可としないという法律上の効果を付していること。

の三点からいつて、憲法第十九条、第二十一条第一項に違反する。従つてこの法律によつて行われた審査は無効である。

(2) 国民審査は、裁判官の任命の可否を国民に問う制度であるから、審査法が、罷免を可とする裁判官を選定する趣旨のもとに制定されたものとすれば、憲法第七十九条第二項に違反し無効である。従つてこの法律によつて行われた審査は当然無効である。

(3) 又原告は、審査法第三十六条に基いて本訴を提起するものであるが、若し右法条は、審査の結果が罷免を可とする場合にのみ、かかる訴を許す趣旨であると解されるならば、憲法第十五条、第十六条、第三十二条に違反し結局審査法そのものが無効である。従つてこの法律によつて行われた審査は全部無効である。

(二)事実上の主張

(1) 今回の審査においては、審査人に投票用紙の持ち帰りを禁止し、且つ罷免の可否を知らないため投票を欲しない者にも投票を強制し、かかる投票に対し罷免を可としない法律上の効果を付した。かかる審査方法は日本国憲法の精神に違反する。従つて今回の審査は無効である。

(2) 又今回の審査に作成された審査公報は、各裁判官の取扱つた裁判事件について、三淵、沢田両裁判官を除き他の裁判官の裁判上の意見を記載しなかつた。各裁判官の裁判上の意見は、審査公報に記載すべき最も重要な事項である。この重要事項の記載を欠いた審査公報は、審査法第五十三条、同法施行令第二十六条、第三十三条に違反して作成されたものであつて、かかる審査公報によつて行われた審査は無効である。

というのである。

第二、被告の答弁及び主張

被告代理人は答弁として、原告の訴はこれを却下する、若し訴を却下しない場合には、その請求を棄却する、訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め

一、原告の主張する事実に対し次の如く認否した。

(一)被告の適格及び原告の適格に関する事実、被告が審査法の規定に従つて告示をした事実、審査の機構と設備に関する事実、審査投票用紙はこれを衆議院議員選挙投票用紙と共に(機会を同じうしての意味で)投票所で交付したという事実、投票用紙の記載方法について、各投票所においてこれを説明したという点を除くその余の事実、審査会が審査分会長の報告を調査しこれを承認報告するに至つた経過事実、審査に罷免の可否を知らないという投票方式が認められなかつた事実、今回の国民審査に用いられた投票用紙の様式が、審査法第十四条の規定に則つたものであること、及び投票の方式が同法第十五条の規定に従つて行われたものである事実、従つて罷免の可否を知らないという投票方式が認められなかつた事実、審査法が投票用紙の持ち帰りを許さない趣旨である事実(但しその根拠は同法第十三条ではない)、審査会において、各裁判官について罷免を可とする投票と罷免を可としない投票との二種類を区別計算したこと、及び何等の記載もしてない投票用紙に、罷免の可否を知つていたか否かを積極的に調査することなしに、罷免を可としない投票としての効力を付した事実、今回の審査に発行配布された審査公報に、最高裁判所裁判官三淵忠彦、同沢田竹治郎の二名を除く他の十二名については、その取扱つた裁判事件の裁判上の意見を記載していない事実は、いずれもこれを認める。

(二)罷免の可否を知らない審査人が過半数以上であつたという事実、棄権を欲しながらも棄権する方法を知らないために投票した者が遥かに多数に上つているという事実、各投票所において現実に投票用紙の記載方法を説明したという事実、各投票所で現実に投票用紙の持ち帰りを禁じたという事実はいずれも不知。

(三)その他の事実は否認する。

二、先ず原告の訴は法律上許すべからざるものであるとして次のように述べた。

本件については訴訟を提起し得る法律上の根拠がないから原告の訴は却下さるべきものである。即ち

(一)原告は本件訴を審査法第三十六条にもとずいて提起したものである。しかるに同条によれば審査人は「第三十三条第二項の規定による告示のあつた日から三十日内に」訴を提起することができると定めてあるが、審査法第三十三条第二項は、「国民審査管理委員会は前項の報告を受けたときは、直ちに罷免を可とされた裁判官にその旨を告知し、同時に罷免を可とされた裁判官の氏名を官報で告示し」と規定し、罷免を可とされた裁判官があつた場合にのみ、同項の告示をするものとしており、現に今回の審査においては、罷免を可とされた裁判官がなかつたから告示はされなかつた。これらの理由からして、審査法第三十六条は、罷免を可とされた裁判官があつた場合にのみ、訴訟の提起を認めていることは明かであるから、原告は今回のような審査の場合には、同条による訴訟の提起はできない。同条によつて訴訟を提起したとすれば、出訴期間は何に準拠したか不明である。又審査法第三十六条以外に、審査法中に本件のような訴訟の提起を認めた規定はない。

(二)更に審査法以外においても、本件のような訴訟を許す規定はない。裁判所法第三条第一項に、「一切の法律上の争訟」とあるのが問題となり得るのであるが、ここにいう争訟が、単に民事刑事のみならず、行政事件にも及ぶことは認めなければならない。然し具体的に当事者間に権利義務についての争がなく、行政法規の適正な運用を確保するという、公益的行政監督的立場から、行政法規の違法な適用を是正するために一般選挙人とか一般審査人とかに、広く訴訟の提起を認めるいわゆる民衆的訴訟がこれに含まれないことは、司法権の本質からいつて当然であるといわなければならない。従つて民衆的訴訟の一種である本件訴訟のごときは、この規定によつても提起する余地はない。仮に右の規定に基いて訴訟を提起し得るものとすれば、原告は単に審査人という資格でこれを提起することはできないであろう。またこの場合管轄裁判所は高等裁判所でなくて地方裁判所でなければならない。

(三)原告は、もし本件のごとき場合に訴訟が認められないならば、審査法第三十六条は憲法に違反し無効であるというが同条は憲法に違反するものとは認められないし、仮に憲法に違反して同条が無効であるとしても、それによつて訴訟を提起し得る根拠が生れて来るものではない。即ち

(1)憲法第三十二条は、日本国民のすべてに対し、行政権の専擅によつてのみならず法律によつても侵されない権利として、「裁判所において裁判を受ける権利」を保障している。而していかなる範囲の事項について、国民が裁判所の裁判を受け得るかは、裁判所の権限により定まり、結局憲法第七十六条第一項にいう司法権の観念がこれを定めるものである。而して司法権の観念は、学説に異同はあるが、必ずしも民事刑事に限らず行政事件にも及ぶと解するのが多数説である。然し司法権の本質からいつて、一切の行政事件が悉く裁判所の権限に属するものでないことはいうまでもなく、結局裁判所法第三条第一項にいう「法律上の争訟」と同意義と解すべきであつて、この中には本件のごとき民衆的訴訟を含まないことは前述の通りである。即ち本件の如き訴訟は、司法権の当然の範囲には入らないのであり、従つて又憲法第三十二条の範囲外であつて、これをいかに認めるかは一に立法政策に属するのである。従つて本件の如き訴訟を認めないとしても立法の適不適の問題があるに止まり、憲法違反の問題はあり得ないのである。

(2) 原告の主張は憲法第十五条、第十六条に触れているが、第十六条は請願権の規定であつて訴訟の問題とは関係がない。第十五条が国民の公務員選定罷免の権利に関するからといつて、裁判所に出訴し得るや否やの問題が、司法権の観念と離れ、また他の基本的人権と区別して別個に考えられる筈はないから、訴訟提起について特別に論ずる理由はない。

(3) 仮に審査法第三十六条が、憲法に違反し無効であるとすれば、現在認められている訴訟はできなくなるであろうが、結果はそれだけであつて、これがため本件の如き場合に当然に訴訟の提起ができる根拠が新に生れて来るものでない。従つて原告が本件訴訟を提起し得る法律上の根拠がないことには変りがないのである。

(四)(1)なお原告が、訴権が憲法上基本的人権の一つであつて、法律によつても侵すことのできない権利であるとする点は異論はないが、問題は憲法第三十二条の保障する訴権の範囲に本件の如き民衆的訴訟が入るかどうかにある。(イ)訴権は権利を侵害された者が、国家に対し保護救済を求める権利であるとすることは、内容の精確か否かは別として、原告のいう通りであろう。(ロ)然し審査法第三十六条に規定するいわゆる民衆的訴訟は、個人の権利の保護救済を求めるための訴訟ではなく、行政法規の正しい適用を確保し公共の利益を保護するための訴訟である。行政法規の正しい適用は、独り上級の行政機関による監督のみに委せないで、事柄によつては、広く選挙人とか審査人に争訟の途を拓き、国民の協力によつてこれを確保する必要があるのである。この場合選挙人又は審査人は、決して自己の権利の保護救済のためにのみ出訴権者となり得るのではなくて、公共の利益のためにも出訴権者となつて差支えないのである。原告は審査無効訴訟を、個人の権利の保護救済を求める訴訟の如くに解しているが、これはその本質を誤つたものである。勿論公益事件は、何等かの意味で国民個人の利害に関しないものはないが、この意味で個人の利害に関するというならば、すべての公益事件は悉く個人の利害に関するのであつて、公益事件乃至公共の利益なる観念は成立たない。審査無効訴訟は、直接には明かに公共の利益のためにする訴訟であり、個人の権利の保護救済のためにする訴訟ではなく、審査人は権利の侵害を要件としないで出訴することができるのである。(ハ)かく見るときは、審査無効の訴訟の如き民衆的訴訟は憲法第三十二条に定める訴権の中には入らないと解さなければならない。これは基本的人権たる訴権の本質からいうも、憲法第七十六条に定める司法権の観念からいつても当然である。即ち司法権は、国民個人の権利の保護救済をその本来の使命とし、行政権に対する一般的監督権を有するものではない。従つて行政権により国民個人の権利が侵害された場合も、その保護救済は司法権の任務に属するであろうが、個人の権利義務に直接関係のない行政事件は、当然その範囲に入るとはいえないのである。(ニ)民衆的訴訟の審判権が、憲法第七十六条にいう司法権の範囲に入らず、又その出訴権が憲法第三十二条に規定する訴権の範囲に入らないものとすれば、民衆的訴訟を如何に認めるかは法律の自由に定め得るところであり、専ら立法政策の問題に属するものといわなければならない。従つてもし現に法律の定めるところを不当とするならば、その改正論をもつてすべく、違憲論をもつてすべきではない。憲法上出訴が保障されるか否かは、一に憲法の規定する司法権及び訴権の観念によつて定まるのである。

(2)原告は又審査法第三十六条と第三十八条は、全く同一事項を定めた重複規定であつて、第三十八条は無用の規定であるというが、前者は選挙法にいわゆる選挙訴訟(衆議院議員選挙法第八十一条)に相当し、後者はいわゆる当選訴訟(同法第八十三条)に相当するものであつて、両者の間には明かな区別がある。前者は自己の利害の立場からでなく、公益上の立場から一般審査人に出訴を認めるのであるから、罷免を可とした審査の結果に対し、その出訴を認めたことは、何等怪しむに足りない。原告が審査法第三十六条は、罷免を可としない審査の結果に対してのみその無効を主張し得る規定であるというのは全く誤りである。却つて審査法第三十六条は、罷免を可とされた裁判官がある場合にのみ出訴を認めるものであることは、明瞭にして疑を容れる余地がない。かく法規の内容が明瞭の場合に、これを解釈で補うというのは、実質上の立法であつて、立法機関の外何人も為し得るところでない。その他の原告の主張は立法論に過ぎない。

(3)原告の、審査法第三十六条の内容目的が、各審査人から一切の訴権を奪うこと等に帰着すれば、法全体が無効となるという主張は、同条がそのような内容や目的を有するものでないから、法全体の無効の論は成立しない。仮にこれが憲法の精神に違反するとするも、無効となるのは当該規定のみである。

三、次に原告の法律上の主張に対し次のように述べた。

(一)原告の法律上の主張の一である審査法第十三条等が憲法違反であるという理由中、

(1) 裁判官について罷免を可とするかしないか解らない審査人に対し、解らないという意見を発表し、又はこれに関する意見の発表を留保するいわゆる黙秘の投票の方法を定めていない(即ち罷免の可否いずれにも属しない投票方法の定めがない)という主張について、次のごとく述べる。

(イ)審査制度の基本規定は、憲法第七十九条第二項及び第三項であるが、第三項によれば、国民審査において「投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は罷免される」と定められていて、審査の直接の目的が裁判官の罷免にあることが明かである。元来、民主主義の理論と、他方に裁判官の特殊性との間に立つて、いかに裁判官の任免制度をたてるかは、重要にして且つ困難な問題である。民主主義の理論からすれば、裁判官の任免もまた悉く国民の投票によらしめるのが至当であろう。現にアメリカの州では、裁判官の任命をも一般の投票によらしめている例がある。しかしながら、原告も強調するがごとく、個々の裁判官の適否を、一般国民が判断することは頗る困難であり、また裁判官が選挙競争の渦中に身を投ずる弊害も考えなければならない。かくて裁判官の任命を、一般の投票によらしめる制度は、一般普遍的な制度とはなつていないし、米国でも漸次その範囲が縮少しつつあるといわれる。わが憲法第十五条第一項は、公務員の選定罷免を国民固有の権利と規定しているが、それにも拘らず、いずれの裁判官の任命も、国民の投票によらしめるものはない。任命後に国民の審査を認めるか、またいかなる趣旨においてこれを認めるかも、民主主義の理論だけからは論ぜられず、裁判官の特殊性に深い考慮が払われなければならない。而して積極的に不適当とする者を選定するだけに止めないで、更に積極的に適当とする者をも選定させることは、恰かも任命におけるがごとく、一般国民に難きを強いるものであり、裁判官の心裡に及ぼす微妙な影響も見逃すことはできない。わが憲法の採る審査制度は、任命の全面的再確認を定めるものではなく、新たな罷免即ち一種のリコール制を定めるものである。仮任命を本任命とするものではなく、任命はすでに確定完結し、審査に於ては不適任者を特に罷免するものである。かように審査の目的が、積極的に罷免すべき者を定めるところにあるとすれば、審査の投票には、積極的に罷免を可とするものと、然らざるものとの二種類を認めれば必要且つ充分であり、罷免を可としない投票を更に細分することは、その必要もなければその意味もない。従つて投票方式に関する現行審査法の規定は何等憲法に違反するものではなく、むしろその趣旨に忠実であるということもできる。

(ロ)原告は国民審査の本質は、最高裁判所裁判官の任命又はその地位の経続の可否を確認し又は否認する制度であつて、リコールの制度ではなく、憲法第十五条の公務員選定の権利行使であつて、任命について行われるものであると主張するが、(い)純粹の法律論からいうならば、審査制度の直接の目的が、不適任者の罷免にあることは、憲法第七十九条第三項の規定上明瞭であつて、これ以外に国民審査は、何等法律的効果をもつものではなく、審査制度の法律的意義はこの点にのみある。(ろ)他方最高裁判所の長たる裁判官の任命について、憲法は内閣の指名に基いて天皇がこれを行うことを定め(憲法第六条第二項)、その他の最高裁判所の裁判官の任命については、内閣がこれを行い、法律(裁判所法第三十九条第三項)の定めるところにより天皇がこれを認証することを定め(憲法第七十九条第一項、第七条第五号)、その任命行為の成立乃至効果の確定について、他に何等の条件も制限も加えていない。即ち憲法上は、これらの裁判官の任命は任命行為で完結するのであり、その地位が法律的に国民審査の終了まで、未完成乃至不確定な状態にあるものと解することはできない。(は)もし国民審査が任命の承認又は不承認であるならば、その任命後初めて行われる衆議院議員総選挙の際に、一回だけ国民審査に付すればよい筈であつて、その後十年を経過した後重ねて国民審査に付し、更にその後十年毎にこれを繰返す必要はない。すでに承認した任命に重ねて承認又は不承認をするというが如き観念は成立たない。(に)原告は、国民審査を罷免の制度と解すれば、彈劾制度と重複するがごとくいうけれども、彈劾は裁判官の職務上の義務違反等(裁判官彈劾法第二条)を事由とするに対し、審査による罷免は、裁判官としての不適任を事由とし、両者自ら事由を異にする。(ほ)原告は、審査法第十五条第一項が、「罷免を可としない裁判官については(中略)何等の記載をしない」という方面をも定め、また投票用紙に「やめさせなくてよいと思う裁判官については何も書かない」ことをも注意書していること等をもつて、「任命の可否」を問うている根拠とするが如くであるが、「罷免の可否」を問う場合でも、罷免を可とする投票と可としない投票とをさせて、両者の比較によつて罷免すべき者を決定することは、何等成立たぬことではないのみならず、むしろ必要のことであるから、この点から「任命の可否」を問うているものと立論するのは誤りである。況んや審査法第十五条等は「罷免を可としない」とか、「やめさせなくてよい」とかいつていて、「任命を可としない」等とはいつていない。

(2) 次に審査法が、衆議院議員の選挙に臨んだ選挙人に対し、悉く審査の投票用紙を交付し、その持ち帰りを禁止し、且つ罷免の可否を知らないため投票を欲しない者に対しても、罷免の可否いずれかの投票を強制していること、又投票用紙は裁判官全員を連記してあるため、一人又は数人の裁判官についてのみ、罷免を可とするかしないかの投票をしようとする審査人は、その他の裁判官に対しても投票することを余儀なくされているという主張については、次の如く述べる。

(イ)審査法は、投票用紙の持ち帰りを禁止することを趣旨とするが、投票を強制するものではない。先ず審査法が投票用紙の持ち帰りを禁止していることは、(い)投票用紙が投票所外に散逸することは、種々の不正投票の原因となるから、その弊害を除く必要があり、(ろ)又投票用紙は私製を認めず、公の機関がこれを調製交付するものとし(審査査法第十四条第三項、第二十六条、衆議院議員選挙法第二十六条)、成規の用紙を用いない投票を無効とするいわゆる投票用紙公給主義を採り(審査法第二十二条第一項第一号)、又投票用紙は投票所において交付し(審査法第二十六条、衆議院議員選挙法第二十六条)、審査人は自から投票所に出頭し(審査法第二十六条、衆議院議員選挙法第二十五条第一項)、投票用紙に自から所要の記載をして投票する(審査法第十五条第一項、第十六条第一項)という、いわゆる投票所投票主義を採つている。(は)又審査法施行令第十四条によつてその例によるとされる衆議院議員選挙法施行令第二十条が、「選挙人投票前投票所外ニ退出シ又ハ退出ヲ命ゼラレタルトキハ投票管理者ハ投票用紙ヲ返付セシムヘシ」と規定している等の点から明かである。原告は、審査法が投票用紙の持ち帰りを禁止している法条の根拠を、同法第十三条であると主張するが、同条は「投票の時及び場所」を定めたものでこの問題とは何の関係もなく、もし同条がこの根拠であるとすれば、同条は衆議院議員の選挙が無投票(衆議院議員選挙法第七十一条)の場合には適用がないから(審査法第二十五条第二項)、投票用紙の持ち帰りは自由となるのであろうが、投票用紙の持ち帰り禁止は、それ自身の理由と根拠とをもつた制度であつて、この場合でも持ち帰りは許されないことはいうまでもない。従つて、審査法が投票用紙の持ち帰りを禁止していることはその通りであるが、その根拠が同法第十三条であるとする原告の主張は誤りである。而してかかる投票用紙の持ち帰り禁止は、衆議院議員選挙その他各種の選挙に通じて行われているが、選挙の公正を保つために必要な方途として是認され、これについて違憲の論を生じたことはない。

(ロ)次に審査法が、罷免の可否を知らないために投票を欲しない者に対しても、罷免の可否いずれかの投票を強制しているということは、審査法の採つている制度ではない。審査の投票は権利であると同時に国家に対する一種の公務であつて、故なき棄権は、権利の濫用と見ることもできるであろうが、しかし現行制度は強制投票の制度は採用しないから、どうしても棄権したい投票人は、投票用紙の交付を拒絶し或は投票用紙を返還し棄権することもできないのではない。原告は、審査法が投票用紙の返還を許さないものとし、従つて審査法は強制投票制度をとるものと主張するが、これは誤りである。即ち(い)投票用紙公給主義及び投票所投票主義は投票用紙持ち帰り禁止の根拠にはなるが、投票用紙返還の禁止はこれらの主義からは出て来ない。(ろ)仮りに原告のいうが如く、投票用紙が委員会の所有物であるとしても、これをいうところの所有者に返還することは何等差支ないのであつて、これがために返還ができないということになる筈はない。(は)原告は、「投票箱に入れなければならない」という規定(審査法第十五条第一項)を援用しているが、これは「投票の方式」として投票箱に入れるという方式に従うべきもので、他の方式によつてはならないことをいつたものであり、投票の強制というが如き実質的な原則を定めたものでない。(に)国民審査の投票が、衆議院議員総選挙の投票所において、その投票と同時にこれを行うという規定(法第十三条)も、「投票の時及び場所」を定めたに過ぎないのみならず、仮に衆議院議員総選挙の投票と一体不可分に行う意味としても、衆議院議員総選挙の投票が強制されていないのであるから、何ら強制の根拠とはならない。(ほ)原告は投票用紙の返還が許されるためには、積極的な根拠が要るというが、特に制限を加えられていない以上、自由であること当然である。しかのみならず返還の途があるということは、審査法施行令第十四条によつてその例によるとする衆議院議員選挙法施行令第二十条の規定からも充分窺われる。なお返還手続の細目等について一々規定を設ける必要がないこというまでもない。(へ)原告は投票用紙の返還を許すか許さないかという問題の意義を過大視し、許さなければ直ちに強制投票となるかの如く誤解しているが、投票所に出頭するや否やが自由である限り強制投票とはならないし、また出頭するや否やを自由にしておいて、用紙の返還を禁じても何の意味もない。いい換えれば、出頭するや否やを自由にしている現行法の建前からいつても、用紙の返還が自由であることは当然に解釈される。(と)原告は、衆議院議員の選挙について投票用紙の返還が許されないというが、これは全く独断である。従つて白紙投票というが如き法の予想せずまた希望もしない投票の余地があるから、違憲論を生じないというが如き論を立てる必要はない。

(ハ)次に投票用紙が裁判官全員の氏名を連記してあるため、一部の裁判官についてのみ投票したいと思う審査人は、他の裁判官に対しても投票することを余儀なくされたというが、(い)今回の国民審査において、原告のいうが如き審査人が現実にあつたということは知らない。又かかる立証もないのであるから、かかる理由によつて無効であるとする主張は成立しない。裁判官の一部について可否を明かにし、その他については可否不明のため棄権したというような精細な立て方をして意思を貫こうとしたが、棄権の方法がないために投票を余儀なくされるというが如き者が、事実あつたとは考え難い。(ろ)理論上原告のいうが如き審査人があり得るとしても、(A)審査法の定める投票用紙の方式は 現在の実状においては、国民審査の制度を適切に運用する最善の方式であるから(乙第四号証)、特殊の場合に棄権の方法がないからといつて、審査制度全体の利益から見て、やむを得ない例外として容認すべきであり、敢て不当ということはできない。(B)棄権の自由は制限されるにしても、「その他の裁判官」即ち可否不明のため棄権をしたいと思う裁判官には、罷免を否としないまでも、「罷免を可としない」ものには相違ないのであつて、かかる審査人は罷免を否とする投票と区別した別個の投票方式が与えられないというに止まり、敢て意思に反する投票をさせられるのではなく、寧ろ意思に即応する当然の投票をさせられるに過ぎないのであり、且つこれがため特別の負担乃至犠牲を求められるものではないから、実質上審査人の意思は何等強制されるものではない。(C) 国民審査の投票は法律上強制はされないが、一種の公務であり、政治道義的には国民の義務であつて、故なき棄権は権利の濫用とも見られるのであるから、特殊の場合やむを得ない技術的の必要から、棄権の自由が認められないとしても、国民審査の本質に反し不当ということはできない。(D)国民審査は公務であり、審査人は国家の公務を行う国家機関の構成員として公の職分を行うものであつて、個人として行動するものではない。而して凡そ公務執行の方式は、その公務の本旨と必要とに則つて定めらるべきことは当然であつて、これを国民個人の自由権の規定から論断するのは誤りである。ただ公務とはいえ、国民の参与によつて行われる選挙や審査の如きは、自由権の規定の精神は可及的に尊重するのが穏当であろうが、それはあくまで第二義的であつて、原告が公務の本旨と必要とに対する考慮を閑却して、憲法第十九条、第二十一条によつて論ぜんとするのは誤りである。

(3) 次に審査法が、審査人のうち罷免の可否が解らないで何の記入もせずそのまま投票したのに対し、罷免を可としないという法律上の効果を付しているという主張については、審査法が、何の記入もせずにそのまま投票したものに対し、罷免を可としないという法律上の効果を付するものであることは認める。しかし現行の制度は、罷免の可否の解らない者の投票に、罷免を可としない投票としての効果を付与していると解することはできない。仮に法がその建前を採つたとしても、必しも憲法違反と断定することはできない。憲法の定める国民審査の直接の目的は、罷免すべき裁判官を選定することにあるが、その具体的方法として、裁判官の特異的性質から考えて、結局積極的に罷免を可とする投票と、然らざるもの、この二種類を認めれば充分であつて、罷免を可としない投票を更に細分する必要のないことは前述の通りである。而して罷免の可否不明という者は、更に二種類に分ち得るのであつて、一は可否不明であるが故に棄権を欲する者と、二は可否不明ではあるが当初の任命を信頼して罷免を可としない者である。現行制度は、強制投票の方法を採らないから、可否不明の者はいずれの方法を採るも自由である。今回の審査においても、その投票者の中には、個々の裁判官について自から可否の判断のできない者も或は少くなかつたかも知れないが、いずれにしても一方に棄権の方法もあるのに、何等の記載をしない投票をすれば、罷免を可としない投票となることを承知の上で投票したものと見なければならない。即ち投票用紙に何らの記載もしない投票は、罷免を可としない投票となることは、(イ)審査法第十五条第一項によつて明かであり、(ロ)又投票用紙自体にも「注意事項」として「やめさせなくてよいと思う裁判官については何も書かないこと」が特に掲げられ(審査法別記投票用紙様式)、何も書かない投票をすればやめさせなくてよいという投票となる趣旨がかかれている。(ハ)更に委員会は投票用紙の記載方法については、注意事項の配布又は掲示をなす等予じめ審査人にこれを理解習熟させる方途を講じ、特に何等の記載のないいわゆる白紙投票については、すべて裁判官の罷免を可としない投票となり、他の選挙の投票と異なり有効投票として処理されることを理解徹底させるために最善の努力を傾けたものである(乙第一号証昭和二十三年五月二十五日各都道府縣選挙管理委員会委員長宛全国選挙管理委員会委員長通知、記第五の二の(三)及び五参照)。即ちもともと可否の判断のつかない者であつても、何等の記載もしないで投じた投票は、罷免を可としない投票となることだけは充分承知して投票したものと見るに差支えないから、これに罷免を可としない投票としての効果を付与することはむしろ当然であり、投票人の意思に反するものとはいえない。即ち現行審査法は、可否のわからない者の投票に、直ちに罷免を可としない投票としての効果を付するものではなく、その効果を容認する者の投票にその効果を付するものであるから、法の建前としては、敢て審査人の意思を蹂躙するものということはできないのである。

(4) 要するに審査法の定める投票方法に関する規定(第十三条、第十四条第二項、第十五条第一項、第十六条第一項、第二十二条)は、憲法第十九条及び第二十一条に違反するものではない。(イ)国民審査は、前述した通り一つの公務であり審査人は裁判官の罷免という公務を行う国家機関の構成員として公の職務を行うものであつて、国民個人として行動するものではない。すでに国家機関として公の職務を行うものとすれば、国民審査の投票方式等をいかにするかは、その公務の本旨と必要に応じ、公の目的に従つて定めらるべきは当然であつてこれを国民の自由権の規定から論ずることは、もともと当を得ない。(ロ)他面原告の論拠とする憲法第十九条は外部に表現されない内心の作用としての思想及び良心の自由を保障し、これが何等かの憶惻推断によつて干渉圧迫を受けることがないよう、いかなる信念にせよ内心の作用は絶対に自由なるべきことを宣言したものと解すべきであつて、その内容からいつて、これを以て本件を論ずることは当らない。憲法第二十一条第一項についても、「言論出版」を例示するが如く「思想」の自由な表現を保障する規定であることは明かであつて、投票の方法如何というが如き問題をこの規定における「思想表現」の問題として論ずることは、その本旨からいつて、行過ぎといわなければならない。(ハ)仮にこれを憲法第十九条及び第二十一条第一項の規定によつて論じ得るとしても、国民審査はそれ自身憲法第七十九条に根拠を有する制度である。投票の方法に関する審査法の規定が、その基本規定である憲法同条の規定に則り、その精神を具体化して定めたものであるとするならば、これについて憲法第十九条及び第二十一条第一項を論拠として違憲を論ずることは正当でない。もしこの場合審査法の規定がこれら憲法の規定に牴触するというならば、憲法第七十九条とこれらの規定とは両立しないということに帰着するであろう。

(5) 投票方式に関する審査法の規定は、公務員の選定罷免に関する国民固有の権利を定める憲法第十五条の規定にも違反しない。憲法第十五条は、公務員任命権の根源が国民にあるという根本的な考え方を示したのであつて、各個の公務員の具体的任免が直接国民によつて行われることを定めたものではない。個々の公務員の任免方法はそれぞれの性格によつて定められて差支ないのであつて、現に裁判官の任命は、国民の選挙によらないと同じ理由で、その罷免制度は特異性に応じて定められて差支ないのである。国民審査の内容を、罷免を可とする者の選定だけに限局し、これに応じて投票方式を定めても、敢て本条に反するものということはできない。すでにこの固有権の規定に拘わらず、具体的任免方法が特異性に応じて定められて差支ないならば、固有権の故に特に思想及び良心の自由等に関する規定の違反を論ずる理由はないのである。

(二)原告は、国民審査は裁判官の任命の可否を国民に問う制度であるから、審査法が罷免を可とする裁判官を選定する趣旨のもとに制定されたとすれば、憲法第七十九条第二項に違反し無効であると主張するが、審査制度は裁判官の不適任者を罷免することを直接の目的とすることは前述の通りであつて((三)(一)(イ)(ロ)参照)、ただ審査の結果罷免された裁判官以外の裁判官は、これによつて間接に在任を承認されることになり、全体として見れば、国民審査は裁判官の在任を承認するや否やを決する信任投票ということができる。これは国民審査の政治的意義であつて、憲法第七十九條第二項に、「裁判官の任命は」というのはこの意味であり、ここにいう「任命」とは、任命行為自体をいうのではなく、任命の結果即ち裁判官の在任をいうものと解すべきである。しかしこれは審査の政治的意義であつて、その直接の内容は、不適任の裁判官の罷免である。従つて審査法はこの趣旨に則つて制定されたのであるから、何ら違憲立法ということはできない。

(三)次に原告の法律上の主張の三である、審査法第三十六条が、審査の結果罷免を可とする裁判官があつた場合にのみ訴を提起することを許す規定であると解されるならば、憲法第十五条、第十六条、第三十二条に違反し結局審査法そのものが無効であり、従つてこの法律によつて行われた審査は全部無効であるという主張については、(イ)審査法第三十六条は審査の結果罷免を可とする裁判官があつた場合にのみ出訴を許す規定であることはその内容に徴し明かである(前述二参照)(ロ)しかしこの規定は憲法第十五条、第十六条及び第三十二条に違反するものではない(同上)。(ハ)又原告は、「結局審査法そのものが無効である」と主張するが、仮に右の訴訟に関する規定(同法第三十六条)が憲法に違反するものとしても、その結果は同規定が無効となるだけであつて、これがために訴訟に関係のない審査法の規定全部が無効となる道理はない。従つて審査法によつて行われた審査が全部無効となることは考えられない。

四、次に原告の事実上の主張に対して次のように述べた。

(一)原告の事実上の主張の一である、今回の審査においては審査人に投票用紙の持ち帰りを禁止し、且つ罷免の可否を知らないため投票を欲しない者にも投票を強制し、かかる投票に対し罷免を可としない法律上の効果を付した。かかる審査方法は、日本国憲法の精神に違反する。従つて今回の審査は無効であるという主張については、各投票所において現実に投票用紙の持ち帰りを禁止したかどうかは知らない。罷免の可否を知らないため投票を欲しない者にも投票を強制したということは否認する。又投票用紙に何の記入もせずそのまま投票した者に対し、罷免を可としない法律上の効果を付したことはその通り認めるが、原告の、今回行われた審査方法が憲法の精神に違反するから、その審査は無効であるとの主張は、審査法が憲法に違反して無効であるとするならば格別、これを有効とする以上、審査の効力如何は、審査法の規定に照して論ずべきであつて、直ちに憲法によつてこれを論ずるのは飛躍であり誤りである、原告は、投票管理者が、「罷免の可否を知らないで投票用紙の処理に迷う者や、現に投票用紙を持ち帰ろうとする各審査人に対して、投票用紙は返還できないし、また投票用紙は持ち帰れないという法規と慣行の趣旨を説明して、投票用紙の投入を示唆した」と主張するが認めることはできない。又被告の投票用紙は投票を欲しなければ返還もできるとの主張に対し、投票管理者等が投票用紙の返還ができることを各審査人に指導を与えなかつたと攻撃するが、仮にかかる指導を与えなかつたとしても、そのことは法律上の必要ではないから差支えはないし、また行政上からいつても、かくまでして審査人に棄権を勧奨する必要はないから、不適当な措置ということはできない。

(二)原告の事実上の主張の二である、今回の審査のため作成された審査公報は、各裁判官の取扱つた裁判事件について、三淵、沢田両 判官を除き、他の裁判官の裁判上の意見を記載しなかつた。各裁判官の裁判上の意見は、審査公報に記載すべき最も重要な事項である。この重要事項の記載を欠いた審査公報は、審査法第五十三条、同法施行令第二十六条、第三十三条に違反して作成されたものであつて、かかる審査公報によつて行われた審査は無効であるという主張については、

(1) 一般国民として、各裁判官の適否を判断することは相当困難であり、従つて審査公報が重要な役割を担うことについては、原告と意見を同じうする。又裁判について各裁判官の表明した意見が、適否判断の一つの参考資料となることも認める。しかしこの意見が審査公報発行の最大目的事項であり、これを掲載することが制度の主要目的であるとは考えない。もしそのように重要とするならば掲載事項を定めた政令(審査法施行令第二十六条)において、これを明示すべき筈であつて、少くとも現行法としてはその見地に立つているものと解することはできない。

(2) 次に今回の国民審査における審査公報の発行については、違法の点は認めることができない。(イ)審査公報の理想からいえば、成るべく豊富に参考となるべき事項を掲載するのがいいであろうけれども、その発行手続を官憲が行うものである以上、特に掲載文の内容については、官憲の関与する範囲はこれを最少限度に止めなければ、弊害の恐るべきものがあることも認めなければならない。この故に現行制度は、掲載文は本則として審査に付される裁判官自身にこれを提出させて(審査法施行令第二十七条第一項)官製を排し、また掲載文は原文のままこれを公報に掲載させて(同令第二十九条)官憲の加筆を完封し、同時にたとえ犯罪事項が含まれていても当該機関の責任を免除するのである。即ち掲載文の内容如何は一に裁判官の自覚と熱意とにまち、而して掲載文に関して現わされた裁判官の各般の態度を、国民の判断の資料とさせるのが、現行制度の建前と解さなければならない。(ロ)原告は、掲載文中に、裁判に対する裁判官の意見を欠く場合は「掲載文の提出がないとき」(審査法施行令第二十七条第二項)というに該当すると解するけれども、規定に明示されない限りみだりに官憲関与の範囲を拡大して解することはできない。もし「意見」について原告の如くいい得るとすれば、官憲の見るところによつて、「重要事項」とするその他の事項についても、同様に解さなければならない。要するに改正なくして原告のいうが如く取扱うことは困難であり、もしその取扱をすれば却つて違法たるを免れない。(ハ)又原告は、「審査公報発行の手続に関し必要な事項」(審査法施行令第三十三条)として、委員会において、「意見」に関する事項を掲載文の記載事項に指定することができるというけれども、もともと施行令第三十三条は、単なる発行手続の細目に関して、委員会の処置を認めたものであつて、掲載文の必要的記載事項を適宜指定することまで、委員会の裁量に委せたものと解することはできない。もし「意見」を必要的記載事項として裁判官に義務づけようとするならば、宜しく政令(施行令第二十六条)の改正に待つべきものといわなければならない。

(3) 仮に審査公報の発行に違法があるとしても、単にそれ自体で直ちに審査無効の原因とはならないので、ひいて国民審査の自由公正が破壊され、国民審査としての価値を認めがたいということが明かにされなければ、審査無効の原因とはならないであろうし、更に罷免を可としない投票と、罷免を可とする投票との差は、各裁判官について二千七百万以上に上つているから、少くともこの半数の投票が逆転する可能性が具体的に論証されなければ、「結果に異動を及ぼす虞がある」とはいえないであろう。

(4) 裁判に対する各裁判官の「意見」は、仮に原告のいうが如く重要であるとしても、この点の解決のみによつて原告の本旨は達成されないであろう。たとえ「意見」の記載が補足されたとしても、一般国民が裁判官の適否を判断することの困難は依然としてのこるであろう。

第三、証拠

一、原告は、証拠として甲第一号証の一乃至五、同第二号証の一乃至四、同第三号証乃至第七号証を提出し、証人海野普吉、金丸三郎、土生文之助、郡祐一、藤岡薫、芳賀正夫、藤井幸及び加藤鋭太郎の各証言並びに原告本人訊問の結果を援用し、乙第一号証乃至第四号証の成立を認め、乙第一号証の前文(頭書より、これが施行に万遺憾なきを期せられたい、までの部分)乙第二号証及び乙第四号証を利益に援用すると述べ、

二、被告代理人は証拠として、乙第一号証乃至第四号証を提出し、証人海野普吉、金丸三郎、土生文之助、郡祐一、藤岡薫、芳賀正夫及び加藤鋭太郎の各証言をその利益に援用し、甲号各証の成立を認めると述べた。

理由

第一、本件訴が適法なるや否やの問題について。

被告代理人の主張する、原告の本件訴は不適法であるから却下さるべきものであるという抗弁に対し、先ず判断する。

一、原告の訴は、法律上の理由に基くものと、事実上の理由に基くものとの二つから成り立つて居り、またそのうち前者には異なる三つの理由があり、後者には異なる二つの理由がある。法律上の理由によるものの一は、審査法の投票方法に関する規定は、憲法第十九条、第二十一条第一項に違反するから、この法規によつて行われた今回の国民審査そのものが無効である。二は、国民審査は裁判官の任命の可否を国民に問う制度であるから、審査法が罷免を可とする裁判官を選定する趣旨のもとに制定されたものとすれば、憲法第七十九条第二項に違反する。従つてこの法律に基いて行われた審査は無効である。三は、原告の訴は審査法第三十六条によつて提起するものであるが、もしこの規定が罷免を可とされた裁判官のある場合にのみかかる訴を許す趣旨であるとすれば、この法律は憲法第十五条、第十六条、第三十二条に違反することとなるから、この法律によつて行われた今回の国民審査は無効であるというのであつて、いずれも審査法が憲法違反の法律であるということを理由とする。事実上の理由によるものの一は、今回の国民審査においては、現実の投票方法が憲法の規定に違反して行われたから無効である。二は、今回の審査において発行された審査公報は、審査法第五十三条、同法施行令第二十六条、第三十三条等に違反して作成されたから、結局今回の審査そのものが無効であるということを理由とする。

ある法律が憲法に違反するから無効であることを理由とする訴は、ある当事者が何等具体的理由のないのに拘らず、一般的抽象的にある法律の無効の確認又は宣言を求めることでは許されないのであつて、何等か具体的な権利義務に関する争がある場合に、その理由においてのみ許されると解すべきものである。原告の本件訴のうち、違憲立法に関する訴は、今回の国民審査における具体的な事実に基き権利を侵害されたものとして、審査法の憲法違反を理由とするのであるから、この点に関する限り、訴は形式上許さるべきものであり、被告代理人もまた異議を述べていない。従つて、原告の訴が被告代理人の主張するが如く不適法であるかどうかを判断すればいいことに帰着する。

被告代理人の主張する本件訴が不適法であるという理由は、結局(一)本件の如き訴訟が裁判所法第三条第一項にいわゆる「一切の法律上の争訟」に含まれるかどうか、(二)含まれるとして審査法第三十六条により許されるかどうかの二つの問題に帰着するから、この順序に従つて判断する。

二、前記(一)の問題に入るに先だち、新憲法下における司法権について、狹く考える説と広く考える説とがある。このいずれを採るかによつて、本問題の考え方に自然差異を生ずるとも思われるので、先ずそれを判断する必要がある。(1) 狹く考える説は、本来司法権とは民事及び刑事の裁判をするのを本質とし、行政事件の訴訟は行政権の範囲に属するのであつて、本来の司法権に属するのではない。従つて裁判所は憲法上の権限としては、民事及び刑事についてのみ裁判を為す権限を有し、その他の事件については、法律に特別の規定のある場合にのみ裁判を為す権限を有するのである。このことは新憲法の下に於ても同じであつて、憲法自体には、司法権を民事刑事のみならず、広く行政権に関する訴訟その他一切の訴訟について、裁判をする権限を有すると解すべき何等の根拠はない。然しながら、新憲法下に於ては、行政裁判所の設置を認めず、その権限は裁判所に併合されることとなつたため、裁判所は民事刑事の裁判の外、行政事件の裁判をも行うことになつたのであつて、裁判所法の「一切の法律上の争訟」といつてるのは、この意味を示しているのである。かくの如く新憲法下の裁判所は民事刑事のみならず広く行政事件をも裁判する権限を有することとなつたが、これは特に裁判所法によつて認められたのであつて、憲法の必然の要求に基いたものでない。従つて一切の法律上の争訟といつても、行政裁判は行政行為の適法性を争の目的とするもので、性質上本来行政権の作用に属するのであるから、これを当然に司法権に属すると解すべきでなく、行政行為の適法性につき、如何なる限度にまで訴訟を以てこれを争うことができるか、又その訴訟はいかなる裁判所に提起することができるかは、唯一に法律によつて定めらるべきものであり、又法律によりそれらの訴訟を裁判所の管轄に属せしめたとしても、それは特別の権限を裁判所に与えたのであつて、それらの作用が本来司法権に属するものとする意味ではないというのである。(2) これに対し、司法権を広く解する説は、新憲法の下に於ては、司法権は本質的にも一切の法律上の争訟を裁判し、その権利関係を確定する権限を有するものと解すべきである。旧憲法は大陸法系の思想の影響を受けてできたものであるから、司法権もその系統の考え方に従つて、民事及び刑事の裁判を意味するものとされたのは当然であるが、新憲法は多分に英米法系の考えを取り入れたものであるから、その下における司法権の観念もまた、そのように理解さるべきものであつて、その考え方によれば、本来司法権は、必ずしも民事及び刑事の裁判のみでなく、行政事件をも当然にその中に包含すると解するのであるから、新憲法の下における司法権も本質上行政事件の裁判権をも含むものと解すべきであるというのである。

この二つの見方は、新憲法下の司法権の範囲については、裁判所法第三条第一項の「一切の法律上の争訟」という規定によつて、民事及び刑事の外行政上の争訟をも含むことが形式上明らかとなり、この点において結果としては一致するのであるが、然し「一切の法律上の争訟」の内容について、その限度に問題を残して居り、その解釈に当り、司法権は本来の性質としては民事及び刑事の裁判のみに止まると解するか、或は又その外当然行政事件をも含むと解するかによつて広狹の差を生じ、従つて又一切の法律上の争訟の範囲の考え方についても差を生じないとはいえない。

思うに、新憲法は旧憲法が大陸法系特にプロシヤ憲法を範としたのと異なり、多分に英米法系特に米国憲法に範を採り、主権在民の基礎を確立し、大きな変革を来したのであつて、政治上の力の根源として、国会が国権の最高の国家機関であることを明らかにすると同時に、司法権については、基本的人権を司法的に保障する立憲民主政治の法治国家として、法優位の原理を必然の背景とし、旧憲法下において認められた司法権の独立を確保する裁判官の職務の独立及び身分の保障の規定の外、更に最高裁判所は一切の法律命令規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する終審の裁判所であることを明らかにし、最高裁判所の規則制定権を認め、更に特別裁判所の設置を許さず、行政機関が終審として裁判を行うことを禁じ、終局においてすべての裁判は司法裁判所に統一する組織を確定したこと等から考えて、新憲法下における司法権は、その性質上当然に行政事件に関する裁判権をも含むものと解するを相当とする。

三、然らば更に進んで裁判所法にいう「一切の法律上の争訟」の中に、被告代理人の主張するように、いわゆる民衆的訴訟は含まれないかどうか、ひいて原告の本件訴は この点に関していかに解するのが正しいであろうか。

(一)思うに「一切の法律上の争訟」といつても、社会に生起するあらゆる紛議抗争を意味するものでないことは勿論である。然らばその内容限界をいかに解すべきかが問題である。この問題を解決する根拠としては、三権分立の一柱として、司法権が独立を形成して来た歴史的過程、裁判所の組織権限、特に法律の解釈適用によつて事案を決定する機能の在り方、及び裁判官の法律的能力を主とする資格等から考えて、自らその範囲を知ることができると考えられる。

裁判所の裁判の対象となり得べき争訟は先ず、(イ)「事件」か「争」でなければならない。「事件」とは社会に発生した事実又は出来事によつて社会の秩序又は人の利害に不均衡を生ずるに至つた事柄であり、「争」とは互いに主張の相一致しない当事者が、現に抗争している状態をいい、いずれもその解決調整を必要とするものをいうのであるが、(ロ)かかる「事件」「争」において、互に具体的な利害につき、対立又は紛争を生じた当事者が存在することを必要とする。又(ハ)その当事者間の具体的な利害の対立又は紛争は、当事者の権利義務に関して生じたことを必要とする。次に(ニ)その当事者間の利害の対立紛争には、法律の適用によつて具体的に解決調整され得べき争点が存在しなければならない。更に(ホ)裁判所が法律を適用することによつて、かかる当事者間の利害の対立紛争を終局的に解決調整し得るものであることを必要とする。以上の如き性質から考えれば、全く行政機関の自由裁量に委ねられた事件、又は行政機関相互の間における権限争議の如きはこれに含まれないと共に、全く法律適用の対象とならないか、又は法律の適用によつては定めることのできない政治的社会的又は経済的紛争、或は学問上、技術上の論争、文学、美術、藝能における優劣の争、運動競技の勝敗等は、ここにいう争訟に含まれず、従つて司法裁判所の裁判権に属しないといわなければならない。

(二)然らば更に「一切の法律上の争訟」の意義を以上の如く解して、被告代理人のいう原告の本件訴は、いわゆる民衆的訴訟の一種であつて、この種の訴訟は右にいう争訟には包含されないという主張について考えて見たい。(イ)一般に学者間で民衆的訴訟というのは、一般国民が行政法規の適正な運用を確保するため、国民としての公共的行政監督的な地位から行政法規の違法な適用に対し、これを是正するために提起する訴訟であつて、最も適切な例は選挙に関する訴訟であると解されている。即ち選挙が法規に従つて適正に行われなかつた場合、又は正当ならざる者が当選人と決定された場合等に、選挙の公正を保障するため、換言すれば公共の利益を擁護するため、直接具体的に当事者間に権利義務についての争はないのであるが、一般選挙人は何人でも訴を提起してこれを争うことができるのである。(ロ)民衆的訴訟をかく解するならば、原告の本件訴は正にその類型の一つに属するものと考えられる。原告は訴権の性質について、自己に不利益な訴権の認められないのは勿論、自己の利害に関係のない他人の利益擁護のために訴の許されないことは、訴訟制度上の鉄則であつて、本件の場合は、原告自身が憲法第十二条で、国民が不断の努力により、保持することを要請されている憲法第三章の自由並びに権利、特に第十九条、第二十一条第一項の思想及び良心の表現の自由を侵害されたのであるから、この意味において当然訴権を有するという趣旨(この点においては原告の解する訴権の観念はきわめて狹い)の主張をしているが、自己の権利を害されたということを、かかる意味に解するならば、公共の事柄はすべて何等かの程度で、国民各個人の利害に関係をもちつながつているともいえるのであるが、いわゆる争訟の性質について学者のいうところは、例外なくかかる広い意味でいうのではなく、個人の具体的権利関係の争をいうのであり、又かく解するのが正しいと考えられる。なぜならば各個人の具体的権利関係の争の外に、原告のいうような範囲にまで訴訟の意義を広めることは、従来の司法権という観念(新憲法下においても)と著しく異なつたものとなり、又現在の裁判所の裁判というものの内容と著しく違つたものを含み、これに応ずる組織も現在のままでは適当でないといわなければならない。従つて原告の主張するような訴権の観念は到底これを是認することを得ない。

(三)民衆的訴訟を前述のような意味に解するならば、かかる訴訟は性質上当然には、「一切の法律上の争訟」中に包含されないと解さなければならないし、従つて法律に特別の規定ある場合にのみその提起を許されるものと断ぜざるを得ない。(イ)けだし民衆的訴訟においては、当該個人が何等直接権利の侵害を受けたのでもなく、また前述の意味における利害の対立する当事者があるのでもない等の点からいつても、すでにかかる結論に達せざるを得ないのである。そこで原告の本件の訴が、前述の如く、性質上民衆的訴訟の一種に属するとすれば、結論としては法律に特別の規定のない限り、法律上許されないものといわなければならない。(ロ)原告は、原告自身の具体的権利が侵害されたのでもなく、又侵害される危險も存在するのでもない。この点について原告は、前述したように、自らの権利が直接侵害されたと主張しているけれども、これは全く独自の見解であつて採用することを得ない。更に委しくいえば、いわゆる「争訟」にいうところの権利侵害とは、かかる一般的抽象的意味でなく、具体的現実にその事実が存在することを要するのであるし、且つ原告は法律に定める国民審査の審査方法が憲法違反であると主張すると同時に、今回の国民審査において行われた方法が、一般的に国民が憲法によつて保障された自由を侵害すると主張するのであるから、結局原告自身も一般国民の一人としてそれに属するに過ぎないのであつて、特に原告自身が具体的に格段な権利の侵害を受けたということはできない。(ハ)即ち原告の訴は、行政法規の違法な適用に対し、これを是正するために公共的立場から提起する訴訟の一種であつて、法律の特別の規定をまつてはじめて裁判所に出訴し得るものに属するといわなければならない。

四、次に然らば、原告が本件訴を提起することを許す特別の法律の規定があるかということであるが、当事者のこれについての主張はすでに明かにした如く、原告は審査法第三十六条によるとし、被告代理人は同条はその文言からいつても、罷免を可とされた裁判官のあつた場合にのみ、審査人又は罷免を可とされた裁判官にかかる訴を認めた規定であつて、同条に出訴期間を審査法第三十三条第二項による告示のあつた日から三十日内と定めてあるのに、右第三十三条第二項には、罷免を可とされた裁判官のある場合にのみ告示をすることを定め、今回のように全部の裁判官が罷免を可とされなかつた場合は告示の必要なく、その結果出訴期間を定める方法がないこととなる点から考えても、罷免を可とされた裁判官のある場合にのみ訴を許す趣旨であるというのである。

この問題について結論を先にいえば、審査法第三十六条は法文の一面からいえば、被告代理人のいう通り、罷免を可とされた裁判官のあつた場合にのみ、審査無効の訴を提起することができるようにも見える。然しこの規定は、一般審査人に関する限り、国民審査が適法に行われたか否かを監督するために、公共的の見地から一般審査人に訴を提起することを許す規定であつて、単に罷免を可とされた裁判官のある場合にのみ、これを許したものでないと断ぜざるを得ない。その理由は先ず、

(一)一般審査人の訴は、国民審査が適正に行われることを一般国民に監視せしめる趣旨で許されていることは、恐らく何人も異論のないところであろう。そうであるとすれば、そのような理由のある場合は、単に罷免を可とされた裁判官のある場合に限らないことはいうまでもない。例えば審査を行うべからざるときに行つたとか、投票用紙における裁判官の氏名の印刷が全く誤つていたとか、投票所の設備又は投票箱が秘密を保持するに不充分であつたとかいう理由のある場合に、訴を提起し得るのは、罷免された裁判官のある場合に限るとするのは意味のないことである。又、

(二)文言からいつても、審査法第三十六条には、「審査人又は罷免を可とされた裁判官は」とあつて、審査人については何の制限も附していない。裁判官について「罷免を可とされた」という制限を附しているのはむしろ妥当であつて、裁判官が罷免を可とされなかつたに拘らず、一般審査人と同じように、行政監督的の意味をもつ審査無効の訴を提起することができるようにする必要はない。かかる権利はむしろ罷免を可とされた裁判官にのみ与えることが正しいといわなければならない。

(三)ここで問題となるのは告示の点である。なる程審査法第三十六条が、三十日の出訴期間の起算日として定めている「告示のあつた日」というのは、同条の引用する第三十三条第二項によれば、罷免を可とされた裁判官がある場合にのみ、その氏名を告示するように定めてあるから、罷免を可とされた裁判官のない場合は、告示の必要がなく、結局起算日たる「告示のあつた日」がないことになり、出訴期間の定めようがなく、そこで審査法はかかる場合には訴を許すことを予想していなかつたという結論に導くことも、形式上一応理由があるようにも見える。然しながら、

(1) 裁判官の氏名の告示というのは、審査の目的をよりよく達するための手段手続の一部であつて、審査の本質に関するものではない。この手続も罷免を可とされた裁判官のあつた場合に、その裁判官に審査法第三十六条及び第三十八条の訴を提起し得る期間を定めることを主としたのであつて、そのため委員会は、「前項の報告を受けたときは、直ちに罷免を可とされた裁判官にその旨を告知し、同時に罷免を可とされた裁判官の氏名を官報で告示し」と定め、かかる裁判官が訴を提起する機会を失わないように心を配つたのである。一般審査人については、第三十六条の訴のみを提起し得ることとしたのであるが、この場合は、裁判官が罷免を可とされた場合ばかりでなく、可とされない場合にも、訴を提起し得るのであつて、法の定める告示が、罷免を可とされた裁判官のみを目標にしたのとは、直接の関係がないのである。

(2) 然しながら一般審査人といえども、この種の訴を提起するのに、時期の如何を問わず無制限にこれを許すことは、国民審査の事実を徒らに不安定ならしめるものであるから、これを放任すべきでなく、一定の制限に従うべきことを本旨とすること勿論である。即ち罷免を可とされた裁判官のあつた場合は、法律の定める通り、その氏名を告示した日から三十日内の制限に従うべきであるが、同様に罷免を可とされた裁判官のない場合にも、訴を提起する期間は、三十日内という制限に従うものと解すべきである。かく解するを相当とする理由としては、(イ)国民の多数が関与して形成した法律上の事実の効力 又は多数の人が会議の方法で形成した意思の効力に関するこの種の訴訟については、出訴期間を定め、すでに形成された法律上の事実を際限なく不確定不明瞭ならしめることを防止する方法を講じていることは、各種立法を通じての常則であり(選挙訴訟、当選訴訟、又は諸種の決議無効訴訟等) (ロ)国民審査の場合に、審査無効の訴について罷免を可とされた裁判官に対し、その氏名の告示があつた日から三十日内と定めたのは、法が三十日をもつてこれを制限するのを相当と認めたからであつて、この理由はこの場合に訴を提起する一般審査人についても同様であり、(ハ)罷免を可とされた裁判官のない場合に、訴を提起する一般審査人については、この場合告示がないが、その期間を三十日以外の異なる期間と解すべき格段の理由を考えることができないから、同じく三十日と解するのを相当とするからである。

(3) 然らば罷免を可とされた裁判官のない場合に提起する訴の三十日の制限期間は、告示がないが、その起算日を何日とすべきかが問題である。(イ)この種の訴訟と性質を同じくする、いわゆる選挙訴訟又は当選訴訟等(衆議院議員選挙法第八十一条、第八十三条、第八十四条、参議院議員選挙法第七十三条、第七十四条、地方自治法第六十六条第四項、第百四十六条第十四項)の出訴期間の起算日の定めは、告示のある場合でも、必ずしも告示の日に限定せず、例えば「選挙ノ日ヨリ」(衆議院議員選挙法第八十一条)「決定若しくは裁決書の交付を受けた日から」(地方自治法第六十六条第四項)、「罷免の通知のあつた日から」(地方自治法第百四十六条第十四項)等と定めて居り、これらから考えると、その最も重要な関係にある一定の事実のあつた日を、起算日とする趣旨であることが解る。(ロ)国民審査の場合については、審査分会長は、都道府県の区域内におけるすべての開票管理者から、投票の結果について報告を受けた日又はその翌日に審査分会を開いてその報告を調査し、所定の手続に従つてその結果を審査長に報告しなければならないし(審査法第二十一条 第二十七条第五項 第二十八条 第二十九条)、又審査長はこれらの報告をすべて受けた日又はその翌日に審査会を開き報告を調査し、所定の手続に従つて調査の結果を委員会に報告しなければならないことに定められている(審査法第三十条乃至第三十三条第一項)。而して委員会は、審査長の報告を受けたときは、これに基いて罷免を可とされた裁判官のある場合は、その裁判官にその旨を告知し、同時にその氏名を官報に告示し、且つ内閣総理大臣及び全国選挙管理委員会に通知しなければならないのである(審査法第三十三条第二項)。今回の国民審査においては、当事者間に争のない事実として前述の通りの手続が順次行われ、最終の結果は、昭和二十四年二月三日午後一時三十分より行われた審査会の調査によつて確定したのであるから、二月三日午後一時三十分以後調査を終了した時に、裁判官全部が罷免を可とされないことに確定したものといわなければならない。(ハ)而してこの確定した事実は、委員会の発表により、二月四日午前七時放送ニュースとして全国に放送され、また二月四日の新聞紙にはこの報道が掲載された。(同日付朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞参照)。これらの事実は公知であり当裁判所に顕著である。従つて二月四日には、右確定の事実は一般に公表され、全国民に周知の状態に置かれたと認められる。即ち今回の審査においては、告示という形式的方法はなかつたが、これと同視すべき公表という事実があつたのだから、裁判官が罷免を可とされなかつた場合は、訴に関する期間の起算日は、この公表が周知の状態に置かれた日即ち二月四日とすることが、最も妥当な見解といわなければならない。(ニ)かく解するならば、原告が、本年一月二十三日東京都目黒区第三投票所で、国民審査の審査人として投票した事実は、被告代理人の認めるところであり、従つて又原告が本年三月四日に本件訴を東京高等裁判所に提起したのは、期間の遵守についても適法であると断ぜざるを得ない。(ホ)かく解することは、ある法律の一部分に、その本質に属せざる事項について、当然法規としてあるべき明確な文字を、たまたま欠くか或は不明瞭な場合に、その法律全体の本来の目的と精神に従つて、現われていない法を探究し補充して当該法律の機能を万全ならしめるに外ならないのであつて、何等恣な立法などというべきものではない。被告代理人は、解釈によつて法律の規定していない事項を補充することは、実質上の立法に外ならないのであつて、立法機関以外の何人もなし得るところでないと主張するが、この場合は右述べるように、立法を行うというが如き事柄に属するものでないことは勿論、かかる方法を講ずることはむしろ、裁判官に課せられた重要な任務の一部であつて、当然の責務を遂行するに外ならない。もし裁判官は単に法規の文字のみを鉄則とし、これに固着することのみを職務の本分とするならば、変転常なき社会現象に伴い発生する新しき事態に対し、法を適用するに由なき場合がしばしば生ずることとなり、裁判官の地位を、単なる機械的装置に過ぎないものとなすに至るであろう。

以上述べる理由により、原告の本件訴は、審査法第三十六条により許さるべきものであるから、被告代理人のこれに反する主張は採用することを得ない。被告代理人は、原告が裁判所法の規定によつて本件訴を提起することができるとすれば、「審査人」の資格では提起できないし、又管轄裁判所は高等裁判所でなく地方裁判所であると主張するが、すでに本件訴が審査法第三十六条により許さるべきものと断ずる以上、かかる主張は自ら成立し得ないことは明らかであろう。

第二、原告の法律上の主張について。

一、原告は法律上の主張として、審査法が憲法違反の法律であるという理由を、三種の異なる根拠に基いて主張しているが(昭和二十四年三月二十八日及び九月十二日口頭弁論調書)、そのうち二として、国民審査は裁判官の任命の可否を国民に問う制度であるから、審査法が罷免を可とする裁判官を選定する趣旨のもとに、制定されたものとすれば、憲法第七十九条第二項に違反して無効である。従つてこの法律によつて行われた審査は無効であると主張している。即ち原告は、審査は裁判官の任命又はその地位の継続の可否(以下単に任命の可否という)を国民に問う性質を有するものであつて、任命に対し一種の条件的意義をもつものであり、審査は憲法第十五条の公務員選定の権利の行使であつて罷免ではないというに対し、被告代理人は、審査はすでに有効に任命された裁判官を罷免するかしないかを、国民に問う性質を有するものであると主張する。この点は国民審査の制度がいかなる本質を有するかの問題であつて、本件当事者の各主張の論点を決するに当り、常にそこに復帰する根本の問題であるから、予じめ判断をして置く必要があると考える。

そこで原告の主張する問題の「任命の可否」とは如何なる意味であろうか。原告のいわゆる「任命の可否」には二つの意味が考えられる。一は、任命自体の法律上の効力、換言すれば任命されてその地位にある裁判官の可否という意味でなく、ある裁判官が任命された任命行為そのものの可否の意味であり、二は、ある特定の裁判官が任命された場合、その裁判官が果して適当であつたかどうかということを、任命が適当であつたかどうかという言葉で示す意味である。前者は任命の法律上の問題であり、後者は裁判官の実体の問題である。原告の「任命の可否」というのは前者の意味と解されるが、時に後者の意味にも解され、或は又両者を意味するとも考えられる。後者の意味で「任命の可否」というのは、実質的な意味の任命の可否であつて、唯前者と用語を同じくするのである。この関係は常に混同しないように注意しなければならない。

(一)思うに、審査法に定めている審査方法は、原告の主張するように、立法としてきびしい批判を受くべき部分を多く持つているが、これは方法の技術的方面に従来の国民心理に全くなじまないところがあるため、かくいわれるのであつて、立法の目的は新憲法下の裁判所として、国民固有の権利である公務員の選定及び罷免の権利に即し、最高裁判所の裁判官が果して適当であるかどうかを、直接国民に問う深き意味をもつものである。この点において法律の目的自体は、新憲法下における新らしき制度として、是認せらるべきものであつて、唯その技術的方面に批判の余地があるのであると考える。さて、最高裁判所の裁判官もまた全体の奉仕者として、国民固有の権利である公務員の選定及び罷免の権利に、その存在の基礎を置くことは、原告主張のごとく異論のないところであるが、その選定又は罷免というのは、常に国民直接の意思表示を必要とする趣旨でなく、その地位の根ざしが国民全体の意思に在ることの原理を示すものであるから、この原理に即する限り、法律によりいかなる方法を採用するも、それは立法政策の問題であつて、国民を代表する国会の自由に定め得るところである。わが国は、最高裁判所長官については、憲法第六条第二項、裁判所法第三十九条第一項の示すが如く、内閣の指名に基いて天皇がこれを任命し、その他の最高裁判所裁判官については、憲法第七十九条第一項、裁判所法第三十九条第二項第三項により、内閣が任命し、天皇がこれを認証することとなつている。而して内閣は憲法の定めるところにより、国会の指名によつて任命された内閣総理大臣の組織するところであるから、内閣の指名又は任命によるということは、間接ではあるが、いわゆる公務員任免に関する国民固有の権利の精神を実現しているのである。この方法は、原告のいうが如く、国民が裁判官を直接に選任することは、「技術上不可能であるため」とはいえないまでも、極めて困難であり、且つ利害の上からも考慮の余地が充分にあるので、かく定めたものと解すべきである。然るに裁判官の罷免については、司法権の独立を確保する必要の制度の一つとして、憲法第七十八条において、裁判官の地位を保障し、裁判官は心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されないと定め、最高裁判所の裁判官も、もとよりこの地位の保障をうけているのである。然しながら、最高裁判所裁判官が、内閣の指名又は任命によつてその職についたのは、内閣の判断するところであるから、広く国民一般から見て、果してそれが適当であるかどうか、或は当時適当であつたがその後も適当であるかどうかの判断を求めるため、公務員の選定罷免に関する国民固有の権利に基き、その意見を問う機会を置くことが考えられるのである。ここに憲法第七十九条第二項乃至第四項に定める国民審査の制度が生れたと見るべきである。

(二)かくわが憲法は、裁判官の罷免についても、国民の意思の関与する機会と方法を定めたのであるが、この制度は、わが憲法がその範を採つたアメリカ合衆国に特に発達した公務員解職投票制度に、その依りどころをもつものと認められる。(イ)一九〇八年オレゴン州の立法に初まり、現在約十二州がこの制度を採つて居るが、これらのすべてに共通の性質をいえば、選挙人中の若干の請願に依つて行われる選挙人の一般投票により、特定の公職に在る者を、任期終了に先だち、その公職から去らしめる制度である。多くは州知事や州の行政官を対象としているが、州によつては立法議会の議員又は裁判官にも適用されるように定めているところもある。わが新しき地方自治法において、議員、都道府県知事、市町村長等にこの制度を採用したのは、範をアメリカの制度に採つたのである(地方自治法第八十条乃至第八十八条)。(ロ)この制度の目的は選挙によると任命によるとを問わず、特定公務員に対し、選挙民の発案によつて解職を求めることであつて、選挙又は任命そのものには直接何の関係もない。解職が成立すれば結果として前の選挙又は任命の効力が否認されるに等しい事実を生ずるに過ぎない。この制度の原理ともいうべきものは、権力集中の防止ということにあると認められるが、直接の理由としては、選挙によつて当選した知事その他の行政官等が、選挙前に公約した多くの事項を、当選後全く顧みないで、無責任に放置する傾向になり易いので、当選後公約の責任を盡さない者に対し、選挙民より不信任の意思を表示し、任期終了前にこれを解職する方法として発達したと見るべきである。これが州によつて、次第に他の任命公務員にも及び、選挙に依ると任命に依るとを問わないことになり、更に裁判官にもこれを及ぼす制度を生じたのである。この制度の根本の思想は、いうまでもなく主権在民に発しているのであつて、公務員の任免はすべて国民の権利に属している以上、公務員が国民の信任を失つたときは、これを解職することができるのは当然であるというに帰着する。而してこの理由は、選挙によると任命によるとを問わず、公務員はすべて国民に対し責任を負わなければならないから、就任の原因の如何を問わず、公務員のすべてに及ぼすのを相当とするということになる。(ハ)この制度の是非については、アメリカにおいても多くの議論があり、その本質について、すでに反対論のある外、対象となる公務員に関しては、選挙による者に限るか、或は又任命による者をも含むべきかについて、多くの異論があり、特に専門職の公務員に対しては、国民大衆はその専門技術に対し批判の能力をもたないから、いわゆる真の世論というものは成立できないという有力な意見があつて、裁判官については更に異論が強いようである。なお、裁判官の解職投票制度に対する反対論の最も強い根拠は、司法権の独立にあることはいうをまたない。(ニ)而してこの制度について特に注意すべきは、公務員がその職についた後六ケ月間は、解職投票の請願を禁止しているのが通例であることである。かくの如くアメリカにおいて発達して来た公務員解職投票の制度は、すべてその地位に就いた原因の如何を問わず、その後に国民の意思によつて投票の方法により解職するのであつて、当選、選任、任命そのものを承認又は否認するものではない。これらの点に攻撃すべき瑕疵があれば、それは別途に争わるべきであつて、解職投票制度の関するところではない。前記通例六ケ月の禁止期間は、この性質を語るに充分である。これを裁判官についていえば、すでに特定の裁判官がその地位に就いた後に、国民がこれに対し投票の方法により、不信任を表示して解職するのであり、その不信任の事由は、裁判官の就任の時であるとその後であるとを問わないのである。(六)解職投票制度のこの性質は、他の弾劾制度と比較して見れば特に明瞭である。アメリカ合衆国憲法第二条第四項には、弾劾に関する規定があつて、大統領、副大統領及び合衆国の総ての文官は、叛逆罪、収賄罪又は其の他の重罪及び軽罪につき弾劾を受け、有罪の判決ありたるときは、その職を免ぜらると定め、各州の憲法にも同様の規定が設けられている。勿論この中には裁判官もまた含まれるのである。この制度は当該公務員に法定の事由があつた場合に、法定の手続に従つてその職を罷免するのであつて、解職投票制度が理由の定めがある場合でも、事実はもつと広い見地から選挙民の判断を求めるのと全く異なり、両者は並存するのである。従つて弾劾制度のみあつて解職投票制度のない公務員は、弾劾の事由がない限り、選挙民の信任を喪失しても解職されることはなかつたのであるが、後者が制定されると共に、弾劾の事由がなくても、選挙民の信頼を失えば、解職投票によつて解職される場合があるに至つたのである。これを裁判官についていえば、法定の事由によつて一定の手続により罷免される場合は、弾劾の制度であり、法定の事由はないが、選挙民の信任を失つたために、投票により罷免されるのが解職投票の制度である。アメリカにおいては裁判官については、この外州によつて、立法部による解職、知事による解職があるが、いずれも解職投票制度と並行して存在する異なつた制度である。(ヘ)かくの如く解職投票制度は、すべて公務員が適法にその職に就いた後、通常六ケ月後に、選挙民の投票の方法により不信任の意思を表示し、これを解職することを本質とするのである。

(三)わが国の国民審査の制度は、憲法が多分にアメリカの思想の影響をうけて成立していることを前提とし、これに関する憲法の規定及び審査法に定められた手続等を深く考えると、その本質はどこまでも、一種の解職投票制度であると断ぜざるを得ない。勿論現在の審査制度は、いわゆる解職投票制度の手続を純粋に採り入れていないで、その他の方法を多く加味したため、複雑であり且つ国民の心理の自然に適合しないと批判される部分も存在するので、新しき制度に対する国民の未熟もこれに加わつて、立法に対する是非の論が多いのであるが(甲第一号証の一乃至五、同第二号証の一乃至四、同第三号証、同第四号証参照)、これはどこまでも立法技術の巧拙の問題であつて、いわゆる解職投票制度の本質を変ずるものではない。現在の国民審査制度の性質を、この方向に解明して見れば、このことは明瞭である。即ち(イ)憲法第七十九条第二項の文言は、先ず「最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行われる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し」とあつて、任命後に行われる国民の審査であることを明かにしている。唯最初の審査の時期は、任命に接着していることが多いから、感じとしては、「裁判官何某を任命したことは果して適当であるかどうか」を国民に問うこととなり、任命そのものの是非を問う意味にも解されるが、これは結局任命の実質的審査、即ち任命の対象たる裁判官の適否の審査であつて、決して任命自体が対象ではない。審査の資料も裁判上の実績が未だ多くないであろうから、主として経歴と裁判以外の言論文章により、人物思想能力等を判断することとなるので、結果として実質的意味の任命の可否を国民に問うこととも解されるに過ぎないのである。(ロ)最初の審査の後十年を経過しして行われる審査は、最初の審査において適当とされた裁判官も、十年を経過した後において、なお適当であるかどうかを国民に問うのであつて、この場合は任命自体の可否が問題となる余地はない。而して審査の性質は同一条項の中で、前後異なることはあり得ないのであつて、最初も十年後も通じて同じであるのが当然である。(ハ)審査法に定める審査方法は、積極的に罷免を可とする裁判官に、×の記号を附して投票せしめるのであつて、いわば国民が広き角度より判断して、適当でないと思う者、即ち解職を希望する者を指示させるのが主目的である。従つて本質は、国民が積極的に罷免されることを希望する裁判官が、何人であるかを知ることである。その以外の投票は審査法の上では、実は投票としての本来の意義を持つものではない。投票方法に、罷免を可としない裁判官には、何の記号も記載しないことに定めているのは、この理由からであつて、単に技術的にこれを前者と比較する方法を採つたに過ぎない。(ニ)審査法は、「罷免を可とする投票」に対応し、「罷免を可としない投票」という表現を用い、後者は単に前者にあらざる投票の意味であることを明かにした。即ち後者は全く積極的意義を持たないのである。投票制度の全般を通じ、例外なき共通の性質は、その制度の目的とするところを積極的に投票に表示せしめることである。積極的に何等の表示をも求めない投票というのは、その投票制度の目的とする投票ではなく、本質的には投票の意義をもたないものである。審査法は、罷免させたい裁判官の表示を求めるのが目的であるから、その表示をする投票を「罷免を可とする投票」と言つたのであつて、その他の投票はこれと対等の地位を持つものではない。審査法が、もし任命自体の可否を国民に問う制度であり、又任命された裁判官について、改めて国民に何人が適任であり何人が不適任であるか、双方の表示を求めるのが目的ならば、投票方式は、「罷免を可とする投票」を、基本たる投票とする筈がない。積極的に適任であるという表示と、不適任であるという表示の両者を定め、これを対等の地位に置かなければならぬ筈である。(但しかくの如き二種の表示を同時に求めることは、いずれか一方は法律上意味なく技術的に拙劣である)。然るに審査法は、裁判官として適当であるという趣旨の投票は少しも要求しないで、唯「やめさせた方がよいと思う裁判官」があれば、その表示をすることを求めているのである。即ち審査法は、投票の目的自体において、罷免させたい裁判官を選定することを本質とするものである。(ホ)審査法第三十二条によれば、罷免を可とする投票の数が、罷免を可としない投票の数より多い裁判官は、罷免を可とされるが、投票の総数が衆議院議員選挙人名簿確定の日において、これに記載された者の総数の百分の一に達しないときは、罷免の効果を生じないことに定めている。即ち、審査の手続が有効に行われ、罷免を可とする投票が、然らざる投票に対して多数であつても、全体の数が一定限度以上でなければ、罷免の効果を生じないこととしているのは、いわゆる解職投票制度の本質を持つていることを語るものである。解職投票は、任期の到来するに先だち、選挙民の意思によつてその職を免ずるのであるから、アメリカの例においても、通例先ず請願に選挙民の一定数(多数は二五パーセント)、次で請願成立した後は、選挙民の投票の過半数によつて解職の効果が発生することとし、解職の効果の発生について周到な手続を定めている。これは現に適法にその地位に就いている公務員が、格段な具体的理由がない場合でも、職を免ぜられるという重大な効果を伴うからである。もし審査制度が任命そのものの可否を定める性質を持つものとすれば、投票の総数の少ない事実のみを以つて、任命の可否を不確定な状態に置きながら、恣に任命を可とする効力の発生を擬制するという理由は、きわめて乏しいといわなければならない。(ヘ)審査法第三十六条には、罷免を可とされた裁判官が、審査無効の訴を提起し得ることを定め、又第三十八条には、同じく罷免無効の訴を提起し得ることを定めている。この規定は、罷免を可とされた裁判官が訴を提起するのであつて、罷免された手続又は罷免の効力を争うのが目的である。而してかかる訴は、解職投票制度に通例のものである(地方自治法第八十五条、第六十六条、第六十七条参照)。もし任命自体の可否が本質であるならば、先ず法文の文字において、「罷免を可とされた裁判官」、「罷免無効の訴」、「罷免の効力」等を、特に使用したのは意味がないこととなるばかりでなく、却て誤解を生ずるものを選んだこととなる。また任命自体の可否を審査する手続とすれば、罷免を可とされた裁判官にのみ、特にその結果を争うことを許すのは理由がない。罷免を可とされない裁判官にも、又一般審査人にも、すべて利害関係がある筈である。もし任命の可否といつても、それは任命の可否の実体(即ち任命された裁判官の適当不適当)の問題であるから、罷免を可とされた裁判官が、特に利害関係があるという意味ならば、任命の可否も罷免の可否も用語を争うのであつて、実体は同じことに帰着する。

以上反覆述べたように、新憲法の底を流れる公務員選定罷免に関する国民固有の権利と、司法権の独立を保障する裁判官の地位の確保の制度とを、深く考察するときは、最高裁判所裁判官の審査制度は、裁判官がすでに任命された後、換言すれば任命が確定した後、すでにその地位に在る裁判官に対し、将来に向つてこれを罷免するかしないかを、国民に問う一種の解職投票の制度であつて、すでに成立した任命そのものの効力には、直接関連をもたないと断ぜざるを得ない。

(四)次に原告が審査制度は任命の可否を問う制度であると主張する各個の理由について述べる。

(1) 原告は、審査制度は、憲法第十五条第一項に定められた「公務員選定」の権利の行使であつて、同項後段に規定する「これを罷免すること」の権利の行使ではないと主張するが、これが、審査が任命の可否を国民に問う制度であるという理由の前提として、何等その根拠を示すことなく主張するのであれば、それは独断であつて、到底肯認することはできない。又この主張が、原告の主張する任命の可否についての種々の理由から、かかる結論になるというにあるならば、これはまた、原告独自の議論を推進して著しく飛躍するものといわざるを得ない。かかる解釈は、公務員の選定罷免に関する国民固有の権利を、裁判官に関して独断的に一方の効力を切り離し、これを無為にすることに帰着する。(イ)公務員に関する国民固有権は、選定と罷免の両面に亘つているのであるから、裁判官に対しても双方の面が及ぶことは、原理的には争のないところであろう。而して任命については前述のように、この原理の現われとして、内閣の指名又は任命という方法を採つたのであるが、もし審査制度が、罷免に関する国民固有権の作用でないとすると、この面の作用は裁判官に限り特に行われない制度を採つたということになる。勿論公務員の選定罷免に関する国民固有権は原理であるから、ある種類の公務員に対し、この原理に基き如何なる方法を採用するかは、立法政策の問題であつて、国会の自由に定め得るところであるが、国民の直接関与する方法として設けられた国民審査の制度が、その効果として、不適当な裁判官が罷免される事実を生ずるに拘らず、ことさらにこの点に眼を蔽い、公務員選定の固有権の行使であるというのは、いかにも単純明快を欠く議論であるといわざるを得ない。(ロ)原告はこの点について、度々罷免の可否という形式で任命の可否を審査するのであるといつているから、論理一貫しているというのであろうが、法律は常則としては、法文自体に単純平明に現われるところに真意が存するのであつて、迂廻を重ね探求を盡して解釈しなければ、到達できないような結論は、そのこと自体が無理であるか、又は極めて稀有な困難な場合である。本件の場合は、審査制度を公務員選定の面のみの行使であると結論しなければならぬ程、憲法の規定及び審査法そのものが平明を欠くとは考えられない。(ハ)或は裁判官には弾劾制度があるから、公務員罷免に関する国民固有権の原理は行われているというのかも知れないが、別に述べたように、この制度は審査制度と全く行き方を異にしているのであるから、審査制度についての理由づけにはならない。審査制度が、公務員選定に関する国民固有権の行使であるとすれば、何故裁判官についてのみ、かかる方法によつてこの行使を認めたか、何故罷免に関する国民固有権の行使を認めないかの、立法上の正当な理由を認めることができない。

(2) 原告は、裁判官の任命は、国民の公務員選定権に基いて、本来国民自身の手で行わるべきものであるが、これは技術上不可能であるため、裁判官の任命を、国民が天皇又は内閣に付託したのだから、「主権者である国民はその任命の可否を審査することと定められた」と主張するが、これは政治的議論であつて、審査の法律上の性質をこのように簡単且当然に定め去ることはできない。(イ)前述の如く憲法第七十九条第二項には、「最高裁判所の裁判官の任命は」とあり、又審査法第一条には、「最高裁判所の裁判官の任命に関する国民の審査については」とあるが、この文言は、特定の裁判官が任命されてその地位に在ることを示す趣旨であつて、すでに発生した任命自体の法律上の効力を左右せしめる意味を有するものでない。却つて憲法第七十九条第三項には、「罷免」の文字を用い、又審査法第十五条、第十六条、第二十九条、第三十二条、第三十三条、第四章審査の結果及び第五章訴訟中の各規定、第四十四条第一項第一号第二号、第四十八条第一号等における「罷免」という文字を含む一連の文言をつぶさに検討するときは、皆すでに任命されてその地位に在る裁判官を、将来に向つてその職を免ずるの可否を問う趣旨であることと解せざるを得ない。(ロ)原告は、特に甲第一号証の一(金森国務大臣の第九十回帝国議会委員会における説明速記録)、及び乙第一号証(全国選挙管理委員会委員長より都道府県選挙管理委員会委員長宛通牒)中前文第二項の「裁判官の任命の適否を広く国民の審査に付することにより云々」を引用して、その主張の根拠とするようであるけれども、甲第一号証の一は、そのうちに「其ノ任命ガ正シイカドウカ、裏カラ云ヘバ裁判官ガソコニ任命サレテ居ルコトガ正シイカドウカト云フ批判ヲシテ貰ウノデアリマス」とある通り、任命が正しいかどうかを国民に批判して貰うことであるが、その意味は、結局ある特定の裁判官がそこに任命され、その地位に在ることの是非を問う趣旨であると説明したのであつて、任命自体の可否を問う意味でないことは明かである。又(ハ)乙第一号証に「任命の適否」とあるのは、同様に「任命によりその地位に在る裁判官の適否」という趣旨であることは、同号証の全体を通読すれば明かなところであつて、憲法第七十九条第二項に「最高裁判所の裁判官の任命」とある表現と異なるところはない。原告の申請に係る証人海野普吉(同人は乙第一号証発送名義人である)の供述中、前記任命の適否なる表現は「委員会としては不用意な用語であつたので」、特に「任命の適否を問うのであると言うように、はつきり意識してその字句を用いたのではありません」、「別に法律上の趣旨で記載したものではなく、極く通常の意味で使用したに過ぎないのであります」とあるによつても明かであり、又同じく原告申請に係る証人金丸三郎(全国選挙管理委員会選挙課長)、同証人郡祐一(前全国選挙管理委員会事務局長)の供述によるも、いずれも同号証の「任命の適否」なる文字は、憲法第七十九条の用語を使用したのであつて、裁判官の罷免を可とするか否かを、国民に判断して貰う趣旨なることを認めることができる。

(3) 原告は、裁判官の任命は、国民の付託によつて天皇又は内閣が一応これを完成するが、これらの任命は、「任命後初めて行われる衆議院議員総選挙の際国民の審査」に付されるという条件がつけられ、この条件の成就によつて、或は任命が十ケ年間動かすべからざるものとなり、又或は特定の裁判官が罷免される結果となると主張するが、憲法その他の法令のいずれにも、任命が条件に付されていると解すべき趣旨の規定は見当らない。(イ)前述の如く、最高裁判所の長たる裁判官は、内閣の指名により天皇が任命し、又他の裁判官は内閣が任命し天皇が認証することによつて、当該裁判官の地位は確定し、法律上いかなる意味においても、任命そのものが条件にかかつていると解すべき根拠はない。裁判官の地位は、任命後行われる審査によつて罷免されることがあるから、任命そのものが条件にかかつていることとなるというならば、これは一種の常識的形容であつて、法律上の性質を示すものとはいえない。原告が条件の意味を、独自の見解をもつて使用していることは解るが、その意味を以つてしても、任命自体が条件にかかるということにはならない。結局原告の論は、罷免の効力の形容的表現であると解せざるを得ない。又原告が罷免の効力を前述のように「任命の否認」と解しながら、しかもその効力を将来に向つてのみ生ずると説くのは、次の(5) に述べるように、結局格別の意味のない用語の争に帰着するといわざるを得ない。又(ロ)審査に関する憲法第七十九条第二項の規定は、裁判官の任命は、その任命後始めて行われる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行われる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とすると定めているから、今回の審査によつて罷免されなかつた裁判官も、更に十年を経過すれば又審査に付される訳である。そうすると原告のいうように、審査が任命の可否を国民に問う制度であるとすれば、今回の審査で一旦任命が確定したに拘らず、十年後に行われる審査は、いかなる意味性質を持つのであるか解することができない。なぜならば、一旦確定した任命を更に審査するということは、意味を為さぬからである。原告は、審査の結果罷免を可とされない裁判官は、十年間だけその任命が確定するのだと主張するが、停年以外に任期の定めのない最高裁判所の裁判官の地位に、かかる任期に等しい期間を定めるのは、恣な解釈であつて、憲法上重大な問題であり到底首肯することを得ない。又原告は、十年後の審査について、十年経過後審査の時までの裁判官の地位を、会社取締役が任期満了後次の取締役の選任されるまでの間の地位と同様であるとし、暫定的性質のものであり、審査の結果再選によつて更に十年間確定するか(再任命)、又は将来に向つて地位を失うこと、恰かも旧憲法下の緊急勅令と議会の承認との関係に等しいというが、かくの如く審査の性質を、任命の可否と解する結果として、任命の法律上の性質に独自の見解によつて、恣に不確定な且つ任期と同じ意義を附することは、法律上何の根拠も認められないのみならず、一般法律理論からいつても、到底是認することを得ない。(ハ)結局憲法第七十九条第二項の前段と後段の審査は、同一の性質をもつ制度と見なければならず、同一条項に規定されている同じ名称の同じ方法を行う制度が、性質を異にするということはあり得ないのであるから、最初の審査の性質を、原告主張のように解して後の審査とその性質を首尾一貫させるためには、いきおい最初の審査によつて確定した任命の性質に、いつまでも不確定な暫定的性質を与えなければならないこととなり、法律上到底是認しがたき解釈であり、裁判官につぎかくの如き制度の存在を肯認することを得ない。要するに審査方法の法律的解釈からいつても、審査を罷免の可否を国民に問う制度と解して、初めて首尾一貫するといえるのである。

(4) 原告は、審査は将来に向つて裁判官である地位を認め、又は否認するものであるから、審査の結果その任命を否認されても、その効力は将来に向つて、当該裁判官の罷免の効力を生ずるのみであつて、さかのぼつてその任命が無効になるのでないと主張するが、審査を「任命そのものの可否」と解しつつ、効力について右の如く解するならば、審査を罷免の可否と解するのと何処に差異があるのであろうか。或は任命の可否の審査であるが、その効力を将来にのみかからせるのは、既成事実を妨げない法律上の常識であるというかも知れないが、然し任命の可否ということが、法律上全く格別の意味を生じないとすれば、それは一種の政治的意義であるか、用語の争であるか、或は観念の混同から生じた争であるか、いずれにしても重大な意義を持つものとは考えられない。ここに観念の混同というのは、原告が「任命の可否」というのが、最初の審査の場合は、事実は結局裁判官に適当な者を任命したかどうかを審査するのと、殆んど同じことに帰着するであろうから、この事実と審査という観念との混同から生じたのではないかという意味である。最初の審査は、任命後余り多くの年月を経ていないであろうから、審査の実質は、任命そのものを判断するが如くに見えるけれども、それは事実任命の適否(価値判断)を判断することになる場合が多いであろうというに過ぎないのであつて、どこまでも審査は罷免の可否を問うのであり、任命そのものの適否を対象とはしない。又事実としても、必ずしも常に審査の実質が、任命そのものの適否と合致するとはいえない(次項参照)。

(5) 原告は、裁判官に対する「任命の適否の事由」は、任命の前であると後であるとを問わず、「審査の時」までにおける一切の事由に基いてなされるのであると主張する。(イ)この「任命の可否」と「可否の事由」との関連について、考える必要のあるのは、原告の「任命の可否」という意味が、ある特定の裁判官が任命されて、その地位に就いたことの可否の意味をも含んでいるように考えられることである。この意味においては、特定の裁判官が任命されたことが善いか悪いかということとなるので、このことが審査の対象の中に含まれることは論をまたない。不適当な裁判官が任命されたならば、これに対し罷免を可とするというのは、結局任命の可否に対する判断になるともいえるが、これは用語の不正確であつて、実は任命そのものではなく、任命された裁判官を否とすることである。或はこれを以つて結局任命の可否ではないかというならば、それは言葉の争に過ぎない。(ロ)かく判断することは、裁判官の罷免の可否というのは、ある不適当な裁判官が任命された場合と任命当時は適当であつたが後に不適当となつた場合との、二つがあることを考えれば、自ら明かであろう。審査の対象となる裁判官の適不適の事実は、それが任命当時から存在していても、また任命後に生じたのであつても、何等区別するところはない筈である。任命の可否ということを、任命当時すでに存在していた裁判官の適不適の意味に解するならば、文字の意義は適切明確であるが、審査の性質とは相容れない説であつて、審査制度の目的の大半を没却することとなる。原告がこの点において、「任命の適否の事由」は、任命の前後を問わないと説いているのは正しいのであるが、かく解するときは、任命当時適当であつた裁判官が、事後に不適当な事由を生じた場合、その事由によつて罷免を可とするのをも、任命そのものを否とする審査であると解するのは明かに矛盾であつて、到底了解することを得ない。(ハ)結局任命の可否の問題は、最初の審査が適当な者を任命したか否かを審査するのと同じか、又はこれに近い事実となるので、その意味において政治的意義に用うるならば、それはその人の自由であるが、審査そのものものの法律上の性質とは関係はない。また度々述べた通り、右の趣旨から、審査は結局任命の可否を判断することに帰着するという意味において使用するならば、それは誤り易い用語であり、結局用語と説明の争に過ぎないといわなければならない。

(6) 以上で説明をつくしたと思うが、念のため附け加えて置きたいことは、(イ)原告が審査法第十五条を引用し、罷免を可としない裁判官については、投票用紙の記載欄に何等の記載をしないで、投票箱に入れなければならないという定めを以つて、任命の可否を罷免の可否の形式で問うているといい、又投票用紙の注意書にある、「やめさせなくてよいと思う裁判官については何も書かないこと」とあるのは、積極的にやめさせなくてよいと思うか、又やめさせるがよいと思うかの意であつて、単に罷免を可とする裁判官を選定するものでないと主張するが、これは全く独自の断定であつてしばしば述べた通り、審査法に定められた審査方法は、その本質は解職投票制度であるけれども、投票の技術的方法として罷免を可とする以外の投票を、罷免を可としない投票として一種別とし、これを罷免を可とする投票と、比較対照する方法を採用したため、甚しく複雑不明瞭となつたのであつて、これがために審査が罷免の可否を国民に問う本質に何等変るところはない。又(ロ)原告は、もし審査制度が罷免の可否を問う制度であるならば、弾劾制度と重複するという趣旨の主張をしているが、すでに述べたように弾劾は、法律にその事由を明確に規定して居つて、その場合に該当しなければ行うことを得ないけれども、わが現行の審査制度は国民の各自がもつと広い角度から、人物、思想、能力等を判断し、その職に留まることを不適当と認める者に、罷免を可とする投票をすればいいのであつて、両者の性質は全く異なるから、これをもつて審査の性質を定めることは当らない。

以上述べたように、結局審査法によつて定められたわが国の審査制度は、憲法第七十九条第二項の趣旨に従つて制定されたのであるから、違憲立法でないこと勿論である。原告のこれに反する主張は、いずれも理由がないといわなければならない。前述の理由において採つた被告代理人の抗弁は、結局理由あることに帰着する。

二、次に原告は審査法の規定が憲法違反であるという法律上の主張の一において、審査法第十三条、第十四条第二項、第十五条第一項、第十六条第一項、第二十二条の規定は、(イ)裁判官について罷免を可とするかしないか解らない審査人に対し、解らないという意見を発表し、又はこれに関する意見の発表を留保するいわゆる黙秘の投票方法を定めなかつたこと(以下可否不明の投票という)、(ロ)衆議院議員の選挙に臨んだ選挙人に対し悉く審査の投票用紙を交付してその持ち帰りを禁止し、且つ罷免の可否を知らないため投票を欲しないものに対しても、罷免の可否いずれかの投票を強制していること、又投票用紙は裁判官全員を連記してあるため、一人又は数人の裁判官についてのみ、罷免を可とするかしないかの投票をしようとする審査人はその他の裁判官に対しても、投票をすることを余儀なくされていること(以下投票強制という)、(ハ)審査人のうち罷免の可否が解らないで、何の記入もせずそのまま投票したのに対し、罷免を可としないという法律上の効果を付していること(以下無記入の効果という)の三点から言つて、憲法第十九条、第二十一条第一項に違反する。従つてこの規定に基いて行われた審査は無効であると主張する。

(一)先ず前記可否不明の投票の理由について。

可否不明の投票を認めていないことは、当事者間に争のないところである。前に詳述したように審査制度の本質は、一種の解職投票制度であつて、究極は国民がどの裁判官を罷めさせたいと希望するかの意見を求めるのである。言葉を換えて言えば、法のねらいは解職投票の或る数を求めるのであつて、その他のことはこれに附加された技術的方法であり、制度の本質や要素たるものではない。この本質を理解すれば、原告の主張の理由のないことは自から明かとなろう。即ち、

(1) 可否不明の投票又は可否を留保する黙秘の投票というのは、投票を用いる制度全般を通じて、意味を持たない投票である。可否不明の意見を発表する投票方式、又は可否の意見を黙秘する投票方式というのは、結局投票制度の主目的たる積極的意思表示に対し「無」に等しい。「無」に等しい投票方式を定めても、それが制度上いかなる役割を持つのか解することができない。この種の投票を要望することは、現在の棄権の方法の果す効果以外の何ものでもない。いかなる投票においても、政治上の投票制度である限り、その目的は選挙投票においては選挙民が誰を当選せしめようと欲するかであり、解職投票においては、選挙民が誰を解職しようと欲するかであつて、それ以外の投票は制度上要求していないのを通例とし、又かくのごとき投票を要求するのは無意味である。法が要求するのは、ある特定の人に対する積極的意思表示である。その積極的意思表示をする意欲がなく、従つて投票する意思がなければ、しないでも後に述べるように法はこれを強制しないのである。原告がこの点において、投票強制を主張しているのは独断である。

(2) 次に、解職投票制度の本質を持つ審査制度においては、特定の裁判官を罷めさせたいという具体的意見を持つている審査人に、その投票をさせるのが主目的であつて、かかる意見を持つていない審査人の投票は、法の本質上当然に要求されるものではなく、又必要不可欠なものでもない。唯現行制度は、罷免を可とする以外の投票に、罷免を可としない投票という名称を附し、これを本来の罷免を可とする投票と比較する技術的方法を採用したので、この点において罷免を可としない投票は、投票の計算上ある地位を占めるのであるが、これはどこまでも技術的附加的の問題であつて、本質的に罷免を可としない投票に独立対等の価値を生ずるものではない。即ち、審査法は「罷免を可とする」投票を求めるのを目的としているのであるから「罷免を可とする以外の投票」は、反射的結果的に、実はすべて「罷免を可としない投票」と見る基本的見地に立つのである。従つて、「罷免を可としない」という積極的表現を用いたけれども、投票としては何等の記入をしない消極的方式を採つたのであつて、本質は「罷免を可とする投票」をしないことに外ならず、いい換えれば、特定の裁判官を罷免する意思がない審査人の類別に入るに過ぎないのである。本来特定の裁判官が就任している場合、その中誰を罷免させたいかという意見を求めるのは、そういう裁判官の氏名を明かにする方法を採ればいいのであつて、結果として、それ以外の裁判官は積極的に罷めさせたいとは思わぬ意見であることは、当然解るのである。一方に罷めさせたい裁判官の氏名の表示を求めながら、他方に罷めさせたくないという裁判官の氏名の表示を求めることは無意味でありまた無用の手段である。従つて現行審査法も、特に罷めさせたいと思う裁判官の氏名の表示を求めたのであつて、ことさらに、別に罷めさせなくてよい裁判官の氏名の表示を求めてはいない。後者は結果として自然に解るのであつて、消極的結果的効果に過ぎないのである。唯、審査法には「罷免を可としない裁判官」とか、「罷免を可とする裁判官がないとき」等の文字があり、投票用紙の注意書には「やめさせなくてよいと思う裁判官」等の文字があるので、何か積極的能動的意思を表示する投票であるかの如き印象を与えるけれども、事実は、かかる裁判官には何の記入もしないで投票をすることを求めるための、引出し文句に過ぎない。要するに法律は、本質上「罷免を可としない投票」を積極的に要求しているのではなく、投票対比の技術的方法として、「罷免を可とする投票以外の投票」を「罷免を可としない投票」として取扱つたに過ぎないのである。かくの如く、すでに「罷免を可としない投票」が、法律の本質上必要な投票でなく、投票計算の技術上の因子に過ぎないのであるから、可否不明の意見又は可否の意見を黙秘する投票方法を設け、これを独立の種類として認める必要も理由も存在しないことは当然である。また投票計算の技術的方法からいつても「罷免を可とする投票」を求めるのが主目的である以上、可否不明の投票を特に独立の種類として対比計算することは、何等意味もなく価値もないのみならず、徒らに手続を複雑不明ならしめるに過ぎないであろう。

(3) また可否不明ということは、それ自体から考えて見ても裁判官の審査のみに特有のことではない。国会議員及びその他の議員、或は知事市町村長等の選挙においても、選挙民は自己の選挙区内の候補者について、可否が解らないということはあり得るのである。可否不明の程度に、或は深浅の差があるといえるかも知れないがそれは現実の事情と程度の問題であつて、本質的に裁判官にのみ可否不明ということが特有ではない。原告は選挙は積極的にある候補者を当選せしめようとする投票であるから、何人に投票していいか、可否が解らない場合は、選挙民は棄権又は白票の方法を採ればいいのであつて、権利と自由は妨げられないという趣旨の主張をしているが、後に述べるように、審査において投票を強制しているとか棄権を認めていないとかいうことは、制度上はもとより事実としても存在しない。

(4) 原告は、国民の大部分は特別の場合を除き、最高裁判所の裁判官の氏名すら知らないのが事実である。従つて罷免の可否の判断を求めること自体が無理であり、可否不明というのが大部分である。故に可否不明という投票方式を認めないことが、国民のそのままの意思を表現する方法を認めないこととなると主張している。まことに原告の主張通り、国民の多くが裁判官の氏名についてすら親しみが薄いことはこれを認めざるを得ない。この点において、審査制度の投票方法について立法上種々の批判を生ずるのである。然し立法論は別として、裁判官の氏名が国民に親しみがないということは、審査制度の直接の責任ではない。審査制度の本質は、度々述べる通り、裁判官中不適任と思うものを審査人に指示させることである。国民の中、特別の理由によりある裁判官について不適任とする意見を持つ者、又は特別の研究により裁判官中の不適任者を識別し得た者に罷免の投票をさせることが制度の目的である。かかる罷免の投票が或る数に達したとき、罷免の効力が発生すると定めるのであつて、その他の投票はこれを比較する分類として、現行法が採用した技術的方法であることは前述の通りである。従つて裁判官の全部について、新に是非を定めるのでなく、現在の裁判官中非なる者があるかどうかを定めるのである。であるから裁判官について国民中自から研究する者は別とし、その他の者は委員会の提供する審査公報その他の方法で、認識し得る範囲で判断する外ないし又それでいいのである。勿論政府または委員会の手で、常に裁判官の人物能力思想等を判断できるように、方法を講じて呉れることは望ましいが、これには限度がある。国会議員の候補者についても、常にわれわれは、その人物全般を判断し得る充分の資料があるとは必ずしもいえない。これは程度の差である。裁判官となるべき者の適任不適任を、新に国民全部に判断して貰う目的ならば、裁判官の人物について極めて詳細に国民に知らせる方法を講ずる必要があろうが、最高裁判所裁判官は国民の多数の信任によつて成立した内閣が、慎重に考究の上、指名又は任命したのであつて、一応適任者が選任されている筈である。この中から更に国民に直接不適任者があれば、指示するように求めるのが目的である。かくの如く、一旦適任者として就任している裁判官の中から、いわゆる不適任者を選ぶ制度であるから、不適任の認識を持たなければ、それで結局反射的消極的に適任となるのである。従つて可否不明の投票という方式は、本質上不必要無意味であり、国民の多数が、裁判官の氏名すら知らないということは、かかる投票方法を設ける理由にはならないのである。

(3) 原告は、アメリカにおいて裁判官の解職投票制度を採用している州の投票方法について、可否いずれかの投票記号をさせ、然らざる投票は棄権とされ、投票の自由を保持されていると引例しているが、アメリカの通常の事例は、特定の現職者に対する解職投票の請願が成立した後、選挙人に対しその当該現職者の解職に賛成であるか反対であるかの意思を問うのが本旨である。従つて、賛否の対象は特定しているのであり、そのいずれの投票をも欲しない投票人は、初めより棄権の意思を持つているので、投票制度として棄権を認めている以上かかる投票人は本来投票所に出頭しないであろう。それにもかかわらず特に投票所に出頭し、しかも賛否いずれの記載もしないで投票するような念入な投票人は、きわめて稀であろうし、あつてもこれを放任してさして害があるとはいえない。而してかかる投票方法を想像して、ことさらに本質的理由に引例することは到底首肯することを得ない。要するにわが国民審査制度は、賛否の対象は特定していないで、新にどの現職者を解職することを希望するかを国民に問うのが目的であるから原告の引例は当らない。又原告は、一九三四年八月一九日ヒットラーがヒンデンブルグ大統領の死後、大統領の職と宰相の職とを併合する同年八月一日の法律を国民投票に付し、その可否を国民に問うた際の投票用紙が「可」「否」双方の記載部分を設けて、投票人の自由を保障していることを本件に引例しているが、この場合も、可否の意見を求める対象は特定の法律であつて、すでに定まつて居り、その可否いずれかを問う以外に目的はない。可否双方の記号を定めるか否かは、投票技術の問題で本質とは無関係である。その棄権についての関係は、アメリカの例と同様に考えられる。わが国民審査の制度は前述のように一定数の裁判官のうち、解職したい者を指示する投票を求めるのが目的であるから、その方法に誤りが無ければ本質には反しないのであり、ただ投票技術に問題を残すのみである。従つてこの引例も適切ではない。

(二)次に投票強制の理由について。

(1) 審査法が、衆議院議員選挙に臨んだ選挙人に対し、悉く審査の投票用紙を交付し、且つその持ち帰りを禁止している趣旨であることは被告代理人も争わないところである。原告主張の如く、衆議院議員選挙に臨んだ選挙人に対し、選挙の投票用紙を交付すると共に、審査人として審査の投票用紙を交付したことは、審査を衆議院議員の選挙と同時に行う場合には、そうすることがむしろ当然であり、又事実上も有効適切であると認めざるを得ない(憲法第七十八条第二項、審査法第二条、第四条、第八条、第十三条)。「同時に」という意味は必ずしも、時、場所及び方法等について厳格な意味でなく、われわれの社会通念において同時ということであれば、それでいいのであると考えるが、しかし少くとも審査法第十三条は、時と場所が同一であることを要求しているから、衆議院議員総選挙の日に、同一場所で行うことは当然である。すでにかく行う以上、入口を同一にすることも、投票管理者及び審査人双方にとつて便利適切であり、何等不当であるとは考えられない。投票箱を同一にしたことについて可否の議論はあろうが、少くとも審査人にとつては同一の方が便利であることは異論はあるまい。かくして衆議院議員選挙のために出頭した選挙人に対し、審査人としての投票用紙を同時に交付したことは、当然の処置であり、何等非議する余地はない。これを全く別々に交付する方法を講ずることは考えられないことはないが、費用、管理方法、秩序の維持、投票者の利便、混雑の防止等のいずれの観点よりするも、その方が優つているという結論は出て来ない。即ち、審査の投票用紙を同時に交付することを、全く否とする理由は考えられない。原告は、両者の投票を別々に行うときは、審査は棄権のため円滑に行うことを得ないことを予想して、法律は同時と定めたと主張するけれど、かく断じ去る根拠は何処にもない。結局原告は、選挙人の全部が必ずしも審査の投票を欲するものでないのに、すべての選挙人に対し審査の投票用紙を交付する趣旨の規定は、棄権の方法がない以上、選挙人にすべて審査の投票を強制する趣旨に帰着するというのかも知れないが、投票所に出頭した選挙人は、とにかく投票する意思があるのだから、これに審査の投票用紙を交付することは、それだけで何等審査の投票を強制するものとは考えられず、またどうしても審査の投票を欲しない者には、法律上強制の方法を採つていないから、棄権もできるのであつて(この点は次に述べる)、同時投票と投票強制とは相一致するものではない。原告は、審査人は棄権の方法(即ち投票用紙の受領拒絶又は返還の可能)を知らなかつたから、審査を余儀なくされたと主張するが、選挙人の一部にそのような事実があつたとしても、それは選挙又は審査に関する政策の批判にはなつても、審査法そのものが審査の投票を強制していると断ずるのは行過ぎである。

(2) 審査法が、投票用紙の持ち帰り禁止をその趣旨としていることが、果して原告のいうが如く憲法の保障する自由を侵害するものであろうか、否むしろ持ち帰りを許すことこそ、民主主義国家の投票制度の本質をみだすことに帰着すると考える。本来民主主義国家において、投票は公務員に関する国民固有の権利の行使方法として定められた重要な権利であると同時に、大きな公の責務であつて、これを良心をもつて行使することは、やがて国家組織の根本を確立することにつながるのである。従つて、投票制度を採る国家を通じて多数の有力な国は、強制投票制度を採つてはいないが棄権をもつて少くとも何等非難を受けざる行為とは見ていない。棄権は自由であるとか放任されている行為であるとかいうことを、積極的、啓蒙的に説くようなことはあり得ないし、むしろ棄権は公の責務を怠ることであると考えられている。

それ故わが国においても、いつの政府も棄権を防止することに力を注ぎ、苟くもその奨励になるようなことは決して行つていない。これが事実であるから、一旦投票所に赴き投票用紙を受け取つた選挙人が、意思を変じて棄権をしようとする場合、棄権は許されるにしても、投票をしないでその投票用紙をそのまま持ち帰ることを許すことは投票制度の本旨に反するといわなければならない。この理由は審査においても全く同じである。その具体的の理由としては、先ず(イ)審査法施行令第十四条でその例によると定めている衆議院議員選挙法施行令第二十条には、「選挙人投票前投票所外ニ退出シ又ハ退出ヲ命ゼラレタルトキハ投票管理者ハ投票用紙ヲ返付セシムベシ」と規定してある。(ロ)何故かかる規定が設けられているかという直接の理由は、一旦投票所に入り投票用紙を受け取つた者が、投票せずに投票用紙を持つて所外に出ることを許せば、その用紙を他の関係人に利用され、二重投票や、たらい廻しが行われる原因となるからである。又(ハ)現在わが投票制度としては、投票用紙はすべて私製を許さずいわば公製であり(投票用紙公給主義)、この用紙は投票に出頭した投票人に交付し、投票所で投票させる制度を採つている(投票所投票主義)。かかる投票用紙を、投票に使用しない者に与えることに帰着するような方法は有害無益である(審査法第十四条第三項、第二十六条、衆議院議員選挙法第二十六条)。原告は、審査法が投票の持ち帰りを禁止している根拠として、審査法第十三条を引用しているが、同条は審査の時及び場所を定めたものであることは明瞭であつて、ここに引用するのは適切でない。(ニ)投票用紙の持ち帰り禁止は、直ちに投票の強制ということにはならない。即ち持り帰り禁止は、棄権を認めないことでもなく、又投票用紙の返還を禁ずる趣旨でもない。この両者を直ちに結びつけることは独断である。かくのごとく投票用紙の持ち帰り禁止は、投票制度の本質から言つてかくあるべきであり、又明文の根拠としては、衆議院議員選挙法施行令第二十条があるから、これをもつて投票強制の根拠とする原告の主張は採用することを得ない。以上に挙げた理由に相当する被告代理人の主張は、結局理由あることに帰着する。

(3) 次に原告は、審査法が投票を強制している主張として、(イ)罷免の可否を知らないため投票を欲しない者に対しても、罷免の可否いずれかの投票を強制していること。(ロ)又投票用紙は裁判官全員を連記してあるため、一人又は数人の裁判官についてのみ罷免を可とするかしないかの投票をしようとする審査人は、その他の裁判官に対しても、投票をすることを余儀なくされていることの二つを挙げている。先ず

(イ)罷免の可否不明の審査人に関する理由は、法律上その根拠を認めることを得ない。(い)原告は、審査法の採る投票用紙公給主義、投票所投票主義の規定を以て(審査法第二十六条、衆議院議員選挙法第二十六条、第二十七条、審査法第十三条、第十四条第三項)、それ自体投票を強制し、審査人に投票の義務あることを明かにしていると主張するが、これらの主義を以て、直ちに投票を強制していると解するのは甚だしき飛躍であつて、到底首肯することを得ない。いずれの規定も投票の方法に関する規準を定めたものであつて、投票そのものを強制する趣旨でないことは明かである。(ろ)原告は、投票用紙公給主義からして、投票用紙の所有権が委員会に属する以上、審査人は審査の目的以外に使用ができないとして、投票強制の根拠にしているが、所有権が右委員会に属するからといつて、投票の強制ということと何の関係も生じない。投票用紙を返還し得ることは、投票用紙の所有権の有無によつて、結論を異にするものではない。(は)原告は、審査法第十五条第一項末段の「これを投票箱に入れなければならない」という規定を以つて、投票強制の根拠としているが、これは投票の方法を定めたのであつて投票する場合に準拠すべき方式である。かかる方式に関する法文の字句を以つて、直ちに投票の義務を結論することは筋違である。(に)原告は、選挙権(審査権も共に)も国民の義務であつて権利の抛棄は自由であるが義務の履行は特別の規定ある場合の外自由ではない。従つて審査の投票について、棄権ができるには明文が必要であるという趣旨の主張をしている。選挙権の性質については種々の説があるが((4) 参照)、少くとも民主国家においては、国民としての重要な公務である一面を持つていることは争のないところである。然し公務ではあるが、その特殊の性質上、強制義務としないのが世界の多くの先進国の採るところであり、わが国もその例外ではない。わが国においては未だ曽て選挙権の行使を、法律上の義務と定められたこともなく、又左様に取扱われたこともない。事実としても、常にいわゆる棄権は存在する。審査制度も同様の性質をもつものであつて、特別の規定がない限り棄権は認められるし、従つてまた投票用紙の受領の拒絶又は返還は法律上禁じられてはいない。(ほ)従来棄権防止の啓蒙運動が、選挙の度毎に行われたのは、前記の如き政治的意義の公務の性質を強調したのであつて、これあるが故に、選挙が法律上の義務となるものでないし、又棄権したため、法律上の責任を問われた者もない。(へ)原告は、従来の各種の選挙においては投票所投票主義を厳重に実施し、投票用紙を必ず投函させて来たが白票の方法があつたから、思想及び良心の表現の自由は妨げられなかつたというが、白票を理由として結局従来の選挙が投票を強制して来たかのごとく主張するのは、独断であつて事実でない。投票は一般に一定の方式による記載を要求しているのであつて、白票は法の定めるところではない。これはいわば放任された違法の行為であつて、かかる意思を有するものは、むしろ投票所に出頭しない方がいいのである。法の目的にない白票という方法から投票強制に導くのは、本末を逆にするものである。又(と)原告は、乙第四号証を利益に援用し、審査法自体が強制投票制度である根拠としているが、同号証の吉田安委員の説明は、「罷免を可としないという意思表示を求めるのはいささか無理を強いることにもなりますので単に罷免を可とする場合にのみその裁判官についての記号を付することとし、何らの記載をしないものは罷免を可としないものと認めることにいたしました」とあるのであつて、何等強制投票の根拠とはならない。

(ロ)投票用紙が連記であることについての主張は、一応原告の理由が肯けないことはない。然しそれは「罷免を可としない投票」の性質を了解すれば、自から明かとなる筈である(一の(三)(四)、二の(一)の(イ)参照)。原告のいうところは、裁判官の全部の氏名が連記してあるため、その中の例えば三名だけ罷免を可とし、その他については罷免を可とするかしないか解らないから、投票したくない即ち棄権したいと欲しても、用紙は不可分であるから、結局他の裁判官については「罷免を可としない」効果の発生する投票を余儀なくされるということに帰着する。この点は正に原告のいう通りであるが、然しながら前に度々述べた如く、わが審査制度は一種の解職投票制度であるから「罷免を可とする」投票を欲する者に、その投票をさせるのが目的であつて、然らざる者は本来制度的には重要な意義はないのである。然し反射的結果的にその他の投票を「罷免を可としない」部類に一括し、これを罷免を可とする投票と比較する方法を採つたから、その限度においてのみ意義を有するのである。従つて前例の如き場合、罷免を可とするかしないか解らない投票は、罷免を可としない名称の投票と同一の投票に算入されて少しも不思議はないのである。又可否不明の投票というものを、特に法律上認める根拠のないことは、前に繰り返し述べた如くである。即ち制度は「罷免したい」という意思の投票を求めるのであるから、その投票にのみ特別の記入を求め、その他は何も記入させない。従つて本来罷免を可としないという積極的投票はないので、罷免を可とする投票以外の投票に、かかる名称を附したに過ぎない。以上の理由から投票用紙が連記であつても、何等他の裁判官に対して投票を強制することにはならないのである。

(4) 原告は、一般に投票ということは一面権利であるが他面義務である。違反者に制裁がなく強制方法がないからといつて法律上の義務でないということはできない。即ち投票は義務であるが強制を伴わない義務である。権利は抛棄を許されるが、義務の履行は自由がなく特に許された場合の外、履行しなければならないのは鉄則である。而してわが国民は選挙または審査は国民の義務であると思い込んでいると主張し、更にかく強制方法を伴わない義務であるのに、審査法自体が投票を強制して居り、又事実としても今回の審査には投票を強制する方法を採つたと主張する。然しながら原告が、投票(本件の場合審査の投票)を権利であるが同時に義務であると強調しながら、他方において法律上これを強制する方法を採つていること、或は事実として投票を強制していることは憲法違反であるというのは、その論旨前後矛盾する。何となれば、投票が原告の主張するように強い義務であるならば、制度としてこれを強制する方法を採つたところで少しも違法ではなく、むしろその性質に沿うからである。然しわが国は、法律上も事実上も投票を強制していないことしばしば述べる通りである。本来選挙権(審査権をも含む)一般を通じて、その性質は純然たる個人の権利を行使するのでなく、国家機関としての権利を行使するのであり、この点において一個の公務であり、選挙人に属する権能と解すべきものである。而して多くの有力な各国の立法は、自由投票制度を採用しているが、強制投票制度を採る国も、その制裁は社会道義的方法、即ち譴責、棄権者氏名の表示、選挙権の停止又は剥奪、公権の停止又は剥奪等が多く、刑罰を科しているところは少ない。かく強制投票制度を採る国においても、公務たる選挙権をできるだけ行使せしめようとするのが目的であるから、棄権の防止を主眼としているのである。わが国は投票制度を採つたが、投票の本質に即し強制方法を採らず、選挙民の自由とした反面、いつの政府も常に棄権防止に力を注いで来た。棄権防止という言葉自体が投票に強制を伴わないことを語るものである。わが国が、自由投票制度を採つていることは明瞭であり、法律の建前としても強制投票の仕組になつていないことまた明瞭である。また原告は、投票は義務ではあるがこれは強制を伴わない義務である。然るに法律は、可否不明の投票又は黙秘の投票方式を認めず、可否不明の審査人に対し何の記入もしない投票を強制していると主張するのであるが、わが国が強制投票制度を採用していないことは前述の通りであり、また今回の審査においても、強制投票を行つたという事実は証拠上認めることはできない(第三参照)。要するに原告の投票義務の主張は、可否不明の投票制度がないのに、投票人は公務としての道義的責任感から、投票するに当り、いきおい可否いずれかの投票を為すのやむを得ざるに至るという趣旨に帰するのであろうが、その意味ならば、投票義務の主張は、一個の政治論であり、何等法律上の根拠のない説であるのみならず、事実としても原告の主張をそのまま是認すべき根拠を認めることはできない(可否不明の投票の制度が不必要であることはすでに述べた)。

(三)無記入の効果の理由について。

被告代理人は、原告の主張の中、審査法は審査人が何の記入もせずそのまま投票したのに対し、罷免を可としない法律上の効果を付しているということは認めるが、これを以つて罷免の可否が解らないで何の記入もしない投票に、かかる効果を付している趣旨と認めることはできないと主張する。先ず、

(1) 原告の主張するように、×印の記入なき投票中、罷免の可否が解らないで、何の記入もしない審査人の存在するであろうことは推測されるが、これはどこまでも推測であつて、どの程度に存在するか測定することは不可能であろう。法の趣旨はしばしば述べたように、審査人が罷免したいと欲する裁判官を示すことを求めるのを目的として方式を立てている。積極的に「罷免を可とする投票」以外は本来一括して「罷免を可とする意思なき投票」なのである。法文に特に「罷免を可としない」という積極的表現を用いたから、恰も特別の記入をする投票を予想されるが、実はすべて消極的意義を有するに過ぎないのである。「罷免を可としない投票」という積極的の投票を認めるならば、積極的に何等かの記入をすることを考えるのが人の心理である。従つてかかる積極的表現をしながら「何等の記載をしない」ことを要求したところに、人の心理に副わざる立法技術の批判を生ずるのである。故に審査の本質通り、罷免を可とする投票以外は一括して単に「罷免を可とする意思なき投票」として計算される趣旨と解すれば、かかる投票に対し「罷免を可としない投票」としての効果を付しても何等差支ないのである。

(2) 可否不明の場合に、可否不明という意見を現わす投票を設ける必要のないこと、並びにこの問題は思想及び良心の表現の自由と関係のないことは前述した通りであるが、(二の(一)(1) 乃至(9) 参照)、また別の観点からいえば、可否不明というのは、本来法の考えている場合ではないので、罷免を可とする裁判官があるかないかが法の求めるところであるから、はつきりそういう裁判官が解らなければ罷免を可としない場合になる。而して罷免を可とする裁判官が解らなければこれを投票に移す場合は、何等の記載をしないで投票するのがこれに該当するのである。罷免を可とする裁判官が解らないため、どうしても投票するのを欲しないならば棄権する外ないのであつて、現行法はこれを禁じていないことは繰り返し述べた通りである。即ち「罷免を可とする投票」以外の投票(即ち何等の記載をしない投票)は、すべて「罷免を可としない投票」として計算されることは、審査法第十五条に規定するところである。強いていえば、可否不明の投票又は可否を留保して黙秘する投票というのは「罷免を可としない投票」の一場合たることを知らなければならない。従つて仮に可否不明なるが故に、何等の記載をしない投票に対し、罷免を可としない投票としたことは法律上少しも非とされる点はない。非難は立法技術の問題として存するのみである。

(3) 審査法は、国民が裁判官を罷免しようと欲しているかどうかを知る方法として、×印の記載ある投票が、いかなる数に達するかによつてこれを定めることにした。従つて罷免をすることを欲しない審査人は、何等の記載をしないで投票することを要求し、かかる投票はすべて罷免を可としない投票となることを、第十五条第一項に明瞭に定めた。また第十四条第三項に定める別記様式の投票用紙には、注意として「一、やめさせた方がよいと思う裁判官については、その名の上の欄に×を書くこと。二、やめさせなくてよいと思う裁判官については何も書かないこと」と印刷し、罷免させたいと思う裁判官がなければ、その反面、当然自動的に罷免することを欲しない投票となることを明瞭にしている。従つて、可否の解らない投票をした審査人が、その欲しない法律上の効果を付されたということは、法の建前上あり得ないのである。

(4) 原告は、区会議員の選挙においては、可否が解らなければ白票を投ずる方法があるが、審査には白票という方法がなく、白票に相当する無記入の投票には、罷免を可としないという欲せざる効果が付されているという趣旨の主張をしているが、すでに述べたように((二)の(3) (ヘ)参照)、議員の選挙において白票というのは、法が何等考えていない方法であつて、これを理由に加えるのは当を失するばかりでなく、審査において白票に相当する無記入の投票は前述の如く法が罷免を可としない投票とすることを、むしろくどく定めているのであるから、その効果については明瞭に過ぎる位であるというべきである。本来、可否不明の投票又は黙秘の投票というような投票は、法の目的からいつて、何等要求していないのであるから、罷免を可とする以外の投票として取扱われるだけでいいのである。原告は、審査法の目的としない投票を要望して、その投票方法の定めがないことを非難するのであるが、審査法は結局いかにすれば最もよく国民が裁判官の適否を審査し、これを投票に現わせるかという見地に立つて方法を定めているのであるから、立法技術上の巧拙はあろうが、それはここに問題とすることはできないし、少くとも本質上、罷免を可とする投票以外の投票はすべて罷免を可としない投票として取扱われることに定めても、何等審査人の意思を無視したものとはいえない。

(四)以上の如く、可否不明の投票、投票強制及び無記入の効果のそれぞれについて、原告の主張の理由がないことを述べたが、原告は、審査法は前記三項目の理由により、憲法第十九条、第二十一条第一項に違反するということを特に強調しているから、この点について更に附加える。憲法第十九条に定める思想の自由とは、人が内心に抱く思考の自由が外部の強制、圧迫、差別待遇等により妨げられないことを意味する。別の言葉でいえば、人の精神活動の自由が包括的に外部の力から保障されている状態をいうのである。国民各自の自主的又は自律的精神は、すべて精神活動の自由から生れるのであり、この自由は民主主義の根底を為すところの信教の自由、表現の自由、学問の自由等の源泉たるものである。而して良心の自由とは、思想の自由のうち、その道徳的判断に属する部分を指していうのであつて、広い意味の思想の自由の中に含まれるといつていいであろう。これ等の自由は投票の方式と直接の関係はないのである。先ず投票の方法にいかなる形式を採用するかはその制度についての立法政策により定まり、主として技術的問題である。審査法においては国民がいかなる裁判官を不適当と認めて、罷免を欲するかの意思を探るのが目的であるから、その目的に沿う投票方式として罷免を可とする記載のみを定めたのである。その他の投票は罷免を可とする以外の投票として、結果的反射的に成立するのであつて、これを罷免を可とする投票と比較する分類としたのである。可否不明の投票又は黙秘の投票というのは、審査法の目的から何等必要のない方式であつて、審査人に現在の裁判官の中に罷免したい者が有るかとの問に対し、可否不明というのは「無い」の部類に入るのは当然である。罷免したいと思う裁判官が有るかの問に対し、「有る」という積極的の意思を持たない審査人には、多くの種類のあることが考えられる。大きく分けて見れば、現在の裁判官を積極的に信頼する理由ある者、信頼する積極的の理由はないが、これを指名又は任命した内閣を信頼するが故に裁判官を信頼する者、内閣の指名又は任命を信頼する訳ではないが、さりとて裁判官について罷免しようとする積極的理由を持たない者の三種類があり、またそれぞれに種々の段階があるであろう。可否不明というのは、右の中第三の部類に属するのであつて、裁判官を罷免しようという特別積極的の理由を持たない者である。罷めさせていいかどうか解らないというのは、少くとも罷めさせたいという積極的の理由を持たないということである。罷めさせたいという積極的の意思がなければ、それは審査法の表現を以ていえば「罷免を可としない投票」となるのである。かくの如く、審査人が裁判官に対し、内心に抱く考えを投票に表現する方式は少しも妨げられていない。即ち審査人の思考を表現する方法は侵害されてはいないのである。前記三種類のいずれに属する考えを持つ者も、投票には「何等の記載をしない」ことになるのである。このように罷免を欲する者にのみ、積極的の投票を求めたのは度々述べた通り、審査法の本質が一種の解職投票制度に外ならないからである。良心の自由は、外部から行為不行為を強制されることによつて侵害される。然るに前に繰り返したように、可否不明の投票というのは制度上不必要な方法であり、投票強制もなく又審査人の欲しない法律上の効果が付されているのでもないから、原告の思想及び良心の表現の自由が侵害されているという主張は、その理由がないといわなければならない。

なお原告が、審査法が違憲立法であるという法律上の主張の二は、理由第二の一に、またその三は、理由第一にすでに判断した通りである。

第三、原告の事実上の主張について。

一、原告は、今回の審査においては、審査人に投票用紙の持ち帰りを禁止し、且罷免の可否を知らないため投票を欲しない者にも投票を強制し、かかる投票に対し罷免を可としない法律上の効果を付した。かかる審査方法は日本国憲法の精神に反するから審査は無効であるというのである。

(一)投票用紙の持ち帰りを禁止したという点について、投票制度全般を通じ、投票用紙の持ち帰りを禁止する趣旨であり審査法も同様であること。またこれが違憲立法でないことは、すでに前述した(理由第二の二(二)(2) 参照)。前記原告の事実上の主張は、その他の説明を綜合すると、審査人にして棄権したいと思う者、特に今回の審査に即していえば、罷免の可否が解らないから棄権する意思で、投票用紙の受領を拒絶しようとする者、又は一旦受取つた用紙を返還しようとする者にこれを許さず、且つ又用紙を持ち帰ろうとする者にも、その持ち帰りを禁じ、積極的に投票を強制したということに帰着する。投票用紙を持ち帰ること自体は、法律上これを許さない趣旨であり、又法律のこの趣旨は、少しも憲法に違反するものでないことは前に繰り返した通りであるから(第二の二(二)(2) 参照)、今回の審査において、現実に持ち帰りを禁止した事実があつても、違法でないのみならず、憲法の精神に違反するものでもないこと勿論である。唯、持ち帰りを禁じた事実があつたとしてこれと共に投票を強制した事実があるかどうかが問題である。この点に関する原告の立証は、全国に亘る事実と、東京都目黒区の投票所における事実との二つに向けられているから、その各について判断する。

(1) 先ず全国の審査の事実について、立証のため原告の申出でた証人で取調べたのは、海野普吉(全国選挙管理委員会委員長)、金丸三郎(同上選挙課長)及び郡祐一(昭和二十三年一月三十一日乃至十二月二十五日同上事務局長)の三名である。これらの証人の供述を通じて認め得ることは次の事実である。(イ)従来から総選挙の場合、投票用紙の持ち帰りは、たらい廻しなどやる危険もあり禁止しているが、持ち帰らせないことは必ず投票させるという強制の意味はない。今回の国民審査においても、なんでも投票をさせるというような指示を与えなかつたこと(海野、金丸)、(ロ)審査の投票をどうしてもしたくないという審査人があつた場合、どうするかということについて、都道府県選挙管理委員会からしばしば問合せがあつたが、これに対し投票は自由であるから、投票人に無理に投票させることはできないという趣旨の回答をしたが、これを全国的に通牒したことはない(海野)。又昭和二十三年十二月二十八日頃、都道府県選挙管理委員会の委員長を招集し、準備会同をした際、同じような質問があつたので、投票用紙の受領を拒んだり又は返還を申出た場合、無理に投票させることは出来ないと回答を与えたから、この趣旨は一般に行きわたつているであろうこと(海野、金丸、郡)、(ハ)従来の選挙において、投票用紙を受けても、投票を欲しないで返還する者があれば、係員はこれを受取り又初めから投票用紙を受取らない者にはそのまま預かつた、これは選挙の係員が慣れているところだから、特に指示しなくともそのように処置したであろうこと(郡)、(ニ)今回の審査においても棄権防止のために周知せしめる努力をしたが、それは投票所え行くことを求めたのであつて、是非とも必ず投票しなければならないというような指導をしなかつたこと、(ホ)棄権防止のため周知徹底の方法を採つたが、罷免の可否が解らない場合は、棄権してもいいというようなことは、他面棄権の奬励にもなるので、そのような指導や通牒をしたことはなかつたこと(海野、金丸、郡)を認めることができる。

これらの事実からして、全国選挙管理委員会の関係者は、全国の関係において棄権防止のため、種々周知の方法を講じたが、これによつて投票を強制するような趣旨の指導をしなかつたのみならず、却て一般的ではなかつたが、審査の投票をどうしても欲しない者があつた場合は、投票用紙を交付しないか、又は返還を受けても致し方がないと答えたことを認めることができる。即ち全国選挙管理委員会としては、全国に審査の投票を強制的に行うような指導通牒をしなかつたことが解る。従つて今回の審査において、投票を強制したという事実は認めることができない。

(2) 次に東京都目黒区の投票所における事実について、原告の申出でた証人で取調べたのは、土生文之助(目黒区選挙管理委員会委員長)、藤岡勳(目黒区役所選挙係長)、芳賀正夫(同上区民係)、藤井幸(弁護士目黒区第八投票所投票立会人)及び加藤鋭太郎(目黒区役所土木課長)並びに原告本人佐々木正泰である。(イ)すべての証人の供述を綜合して認定し得る事実は、(い)東京都目黒区内の投票所においては、一般選挙の場合と同じように、棄権防止の啓蒙運動をしたが、それは投票所へ行くことであつて、投票をしなければならないという趣旨ではなかつたこと、(ろ)投票を欲しないからと投票用紙の返還を申出でた場合、受取つて預かつて置けという指示は、従来の選挙毎にあつたので、今回もその趣旨で臨んだこと(加藤)、(は)投票の趣旨が解らないで考えている者又は聞いた者が若干居たので、係員が注意して投票をさせたこと、(に)裁判官の適否がどうしても解らないからという理由で、投票用紙を戻した者が一人あり、係がこれを受取つて置いた事実があること(土生、藤岡)、(ほ)審査の趣旨は、都から来た大きな掲示用の印刷物を入口と投票所内に貼り、又謄写版の印刷物を投票記載台に貼り付けて、周知せしめる方法を採つたこと(藤岡)、(へ)期日前に協議会を開いて、罷免の可否が解らないから投票をしないという者があつた場合は、用紙を預かることに打合せたこと(藤岡)等である。(ロ)従つて、目黒区内の投票所においても投票の強制という事実は、いかなる方法に依つても行われなかつたと断定することができる。特に土生証人は、罷免の可否が解らないからどうしたらよいかと聞いた者が若干あつたが、自由意思によるようにと告げたと述べている。もつとも藤井幸証人は、投票所の係員は投票用紙の返還申出があつた場合、それをどのように処置していいか知らないように見受けられ、用紙の交付を受けた以上必ず投票すべきで、返還ができるということなどは、全然考えていなかつたようである。又一旦投票所へ入場して投票用紙の交付を受けたら投票すべきであつて、投票せずに帰ることは一寸考えられぬことですとの趣旨の供述をしているが、同証人は当日の投票立会人であつて、審査の方法に対する注意等について他の係員たる証人のごとく、内部関係に参加して居らず、表面の事実をもつて右のごとく供述したものと認められるのみならず、供述自体から言つても投票を強制したという趣旨には解されない。却て右証人自身が、投票人の一人が審査の投票をはつきり断つているのに対し、審査の趣旨を説明した結果、その投票人も結局納得して投票して行つたが、別に強制したのではないと述べている点から、投票の強制ということはなかつたことが認められる。要するに同証人の、係員が投票用紙の返還はできるということなど全然考えていなかつたようだとの供述は、同証人が他人(係員)の内心を推測して述べたのであつて、何等客観的事実の認識についてではない。他の証人の、投票用紙を返還して帰つた審査人の事例についての供述と対照するときは、これをもつて目黒区において、投票強制を行つたと認めることのできないことは明かである。又同証人の、投票人が一旦入場したら投票せずに帰ることは一寸考えられぬとの供述も、結局同証人の主観的推断であつて、審査人が投票を強制されている心理状態に在つたとまで認めることはできない。(ハ)更に原告本人佐々木正泰の供述に、「係員が、判らない者はそのまま投票して行つて下さいと指導して居り、有権者は皆投票して行つたようでした。其処で私は係員は投票用紙の交付を受けた者には洩れなく投票させるように指示されて居るのであろうと思いました。」とあるが、審査の投票は、この制度の本質について前に委しく述べた通り、「罷免したい裁判官があるならばその氏名に×印を付して投票せよ」という趣旨であるから、その意思のない者は、すべてそのまま投票させて何等差支ないのであり、係員がそのように指導したのは法律の趣旨に適つている。勿論その程度を越えて、強制的に投票させる方法を採つていたら問題であるが、本人自身の言葉の通り「指導」である限り、強制と認めることはできない。又投票所へ来た以上投票する意思はあるのであろうから、右供述のように指導したからと言つて、強制とまで考えることはできない。(ニ)又原告は、前記各証人の供述によつて、可否不明の投票方法がないので、可否いずれかの投票を強制されたことになるという主張を、立証せんとするにあることは了解するが、可否不明の投票方式を定めることは、審査制度上無意味不必要なことは前述した通りであるから、その理由は成り立たない。罷免したいと思う裁判官のある人は、罷免の投票をせよというのであるから、罷免したい裁判官のはつきり解らない審査人は、すべて罷免を可としない投票をすることとなるのである。原告は、可否いずれかの投票を余儀なくされたと度々主張するけれども、本質的原理的には、この二つのいずれかの投票を求める趣旨でなく、「罷免したい」投票を求めるのであつて、それ以外はいかなる動機原因理由段階があるにせよ、結局結果的には罷免を可としない投票となるのである。従つて原告の主張する意味においても、前記各証人の供述によつて投票が強制されたとの認定に到達することはできない。

(3) 更に原告は、乙第二号証(昭和二十四年一月二十三日執行衆議院議員総選挙((第二十四回))及び最高裁判所裁判官国民審査結果調と題する印刷物)を援用し、特に東京都の衆議院議員総選挙の投票者数(一二〇頁)と国民審査の投票者数とが共に、一、八七五、五四三名と同数なる事実を以つて、投票強制の行われた証左であると主張するけれど、被告代理人の証拠として提出する部分は、全国の衆議院議員総選挙の投票者数と、国民審査の投票者数とは一致するけれども、投票数において差のあることが明かであり、更に同号証の国民審査に関する調(一四〇頁以下)を査閲すると、国民審査の場合は各都道府県毎に投票者数と投票数とが差があり、投票数の方が皆投票者数より少ないことが認められる(東京都についても国民審査の方は投票者数と投票数とは一万人以上の差がある)。この事実から、衆議院議員選挙のため投票所に入場した者でも、国民審査の投票をしなかつた者のあることが認められる。原告の同号証に基く主張は採用することを得ない。

(二)原告の、罷免の可否が解らないで投票を欲しない者が、無記入の投票を余儀なくされたその投票に対し、罷免を可としない法律上の効果を付したという趣旨の事実上の主張については、審査制度の本質上、可否不明の投票方式を定めてないのは、何等違憲立法でないこと、罷免を可とする投票以外は、然らざる投票として一括類別される趣旨であることは、すでに述べた(第二の二(三)参照)。然らば事実として原告の主張するように、審査人の多数がその欲せざる法律上の効果を付されたであろうか。

(1) 全国の審査一般については、原告申出証人海野普吉、金丸三郎、郡祐一の供述を通じて認め得る事実は、(イ)罷免を可とする場合は、裁判官の氏名の上に×印を記載し、然らざる場合は何も記載しないで投票するのであるという、審査方法の最も重要な点について、委員会の責任者は、全国に周知徹底するように方法を講じ、委員会からこの趣旨を説明した通牒を出したこと、(ロ)都道府県選挙管理委員会委員長書記長を招集した際、その趣旨をよく説明したこと、(ハ)都道府県市町村においても、講演会等を催してその趣旨の徹底を図つたこと、(ニ)市町村の衆議院議員候補者の立会演説会において、その前座として国民審査の趣旨方法を説明させたこと、(ホ)会場にその趣旨を説明した掲示を出さしたこと等である。この外乙第一号証(昭和二十三年五月二十三日附全国選挙管理委員会委員長発各都道府県選挙管理委員会委員長宛通牒)の「記第五投票に関する事項」中、特に(三)乃至(五)に前記の趣旨を充分盡してあることが認められ、各地においてもそのように努力したであろうことは証人藤岡勳(東京都目黒区役所選挙係長)の供述に、国民審査の投票方法については、都から大きな掲示用の印刷物が来たので、投票所の入口や所内に貼附し、又謄写版の縮刷を投票記載台に貼附し、更にその前に、衆議院議員選挙の演説会を利用し、その合間に、国民審査の投票方法について講演を行い、前記の趣旨を周知せしめる方法を採つたという趣旨を述べていることから認めることができる。又審査公報下段の、「裁判官の審査投票について」なる注意書、及び審査法第十四条第三項の別記様式による投票用紙の注意書にも、その趣旨が記載してあり、審査当日の投票用紙もこの通りであつたことは顯著な事実である。以上の証拠に依つて、いわゆる白紙投票の効果がいかなることであるかは、全国を通じて国民に周知せしめられたと認められる。国民中の少数にこの趣旨を知らなかつた者があるにしても、それはその人々の不注意又は理解力の不足等による例外であつて、かかる事例は法律の不知の問題としても、もつと大きく日常生じていることであり、これをもつて全般を断定することを得ない。

(2) 次に東京都目黒区の投票所における事実について、証人藤岡勳、芳賀正夫、藤井幸の供述を通じて、罷免を可とする投票以外は、何の記載もしないで投票するのだという趣旨を、掲示、謄写版印刷、演説会、投票所内における注意等によつて、投票人に充分徹底していたことが認められる。はじめ審査投票について解らないで困つている者もあつたが、係員の説明で結局納得して投票して行つたことは、藤井証人の証言するところである。従つて目黒区における事実としても、審査人は少数の例外はあつたであろうが、罷免を可とする裁判官を考えない者は、何の記載もしないでいわゆる白紙投票をし、その投票はすべて罷免を可としない投票となることを了解していたと認めるに充分である。

(三)以上の如くであるが、原告の、可否の解らない投票に対し、罷免を可としないという本人の欲せざる法律上の効果を付したという主張は、先ず(イ)可否不明の投票方式を設けなければ違憲であるという独自の見解に立ち、(ロ)罷免を可とする投票以外は、罷免を可としない投票とする制度であることを認めず、(ハ)審査人の大部分が可否不明であるとの独自の推測の下に、(ニ)かかる審査人が無記入の投票を余儀なくされたと断じ(強制)、かくして(ホ)本人の欲せざる罷免を可としないという法律上の効果を付せられたというのであつて、その由つて来るところは、審査制度の本質に基く投票方法についての独自の見解に発するのである。投票そのものについて、強制という事実を認めることができない以上、審査法の定めるところに従つて、罷免を可とする投票以外は、その理由の如何を問わず、白紙投票として罷免を可としない投票の部類に入れたことは、立法論としての是非は別とし、何等憲法の条章に違反するものではない。

二、原告は事実上の主張の二として、今回の審査のため作成された審査公報(甲第五号証)は、各裁判官の取扱つた裁判事件について、三淵、沢田両裁判官を除き、他の裁判官の裁判上の意見を記載しなかつた。各裁判官の裁判上の意見は、審査公報に記載すべき最も重要な事項である。この重要事項の記載を欠いた審査公報は審査法第五十三条、同法施行令第二十六条、第三十三条に違反して作成されたものであつて、かかる審査公報によつて行われた審査は無効であるというのである。

今回の審査公報に、裁判官の裁判上の意見が記載されたのは、三淵、沢田の両裁判官だけであることは、被告代理人も争わないところであり、又審査に審査公報が重要な役割を荷うこと、並びに裁判官の裁判上の意見が裁判官の適否判断の参考資料たることは、被告代理人の認めるところである。

(一)審査法第五十三条には、「政令の定めるところにより、審査に付される裁判官の氏名、経歴その他審査に関し参考となる事項を掲載した審査公報」を発行することを要するものとし、その政令である施行令は、第七章に審査公報に関する規定を置き、特にその第二十六条に、審査公報の記載事項として、「裁判官の氏名、生年月日及び経歴並びに最高裁判所において関与した主要な裁判その他審査に関し参考となるべき事項」と定めている。而してその第二十七条には、その手続として先ず、その掲載文は裁判官が提出すること、提出がないときは委員会が調製しその旨を掲載文に附記すること。掲載文を調製するため必要あるときは、委員会は関係人に資料の提出又は事実の説明を要求することができること、更に第三十三条に、委員会はこの外審査公報発行の手続に関し必要な事項を定めることになつている。これによつて審査公報の記載事項は、施行令第二十六条に規定するところを以つて、必要且つ充分としていることが明かである。今回発行された審査公報は、各裁判官の掲載文の内容に関する点を除き、発行の経過手続については当事者間に別段の争がない。而して各裁判官の掲載文は、委員会の附記がないから、裁判官自身の提出したものであり、又掲載事項は成規の項目をすべて含んでいることが認められる。従つて発行の経過と掲載の項目については何等違法はないといわなければならない。

(二)然らば裁判官の裁判上の意見を掲載しない審査公報は適法でないか。これを判断するには、審査公報の性質とその掲載事項は、何が重要かということを考えて見なければならない。

(1) 本来審査制度は、度々述べた通り、公務員の選定罷免に関する国民固有の権利に基礎を置き、すでに国民の信任によつて成立した内閣が、一応適任者として指名又は任命した裁判官について、更に直接国民に対し不適任な者があるかどうかの意見を求めることを本質とするものである。それで、その審査の角度も広い観点から判断するのであつて、人物、能力、思想等全般に亘り、必ずしも具体的理由の有無を問わない。国民は審査に依つて、現在一応適任者として就任している裁判官につき、更に不適任であると認める者があるとき、その罷免を求めるのである。審査公報は、その判断の一資料として委員会が国民に提供するのであつて、唯一の資料でないことは勿論である。もとより審査公報が最も重要な資料であることは間違ないが、国民は審査公報以外に、平常裁判官について見聞するところをも基礎として判断するのが本旨である。わが国の現実としては、裁判官は国民との関係が薄いから、一般にはその人の詳細が知られていないけれども、この状態は、わが国の社会が司法に対する関心において未だ進んでいないためであつて、本質的のものではない。従つて審査公報は、公式の標準たる資料としての機能を発揮し得ればいいので、これに唯一の資料たる性質を要求し、極度に詳細な記載を求める必要はない。わが国の現状においては、司法に関する民度の低きため、審査公報を唯一の資料とした国民が多かつたであろうことは推測できる。然しこの場合、審査公報のみでも特に罷免したいと思う不適任者を認める資料として必ずしも用を為さないとはいえない。

(2) 審査は前述した通り、裁判官中の不適任者を指示する制度であつて、裁判官全体について新に任命を再確認する本質を持つものではない。もし後者の性質であれば、裁判官全部について新にその適格を審査するのであるから、審査公報の使命も極めて重大であつて、今回のごとく簡単なものでは用を為さない。然し制度は、特に不適任の者があれば、その指示を求める趣旨であるから、審査の一資料たる審査公報も、これ一つを以て充分とするまでの内容を持たないでも差支えない。審査人は、積極的に罷免すべき理由を持たなければ、現在の裁判官について特に罷免すべき者を認めないという消極的意見を持つ分類に属することとなるのである。審査公報によつて、任命の再確認をする趣旨を持つ程度の効用を与えようとするならば、審査公報というものの性格は極めて重大となつて場合によつては危険ですらある。現在のような形式内容では不充分であつて、その性質を全く変えなければならないであろう。

(3) 裁判官の審査に当り、裁判官の裁判上の意見は最も重要な資料の一つであることは、原告の主張の如くである。然しこの記載がなければ、審査公報が不適法となる程不可欠のものとは認められない。裁判官が自から裁判上の意見を掲載し、国民の批判を求めることは望ましいことではあるが、裁判官が自ら裁判上の意見を掲載しないために、審査公報が要件を欠くとまで断ずることはできない。裁判官がかかる記載を自らしないことがいかなる価値を生ずるかは、国民の良識の判断によつて定まるものというの外ない。前述した通り、審査制度は大きく且つ広い観点から、裁判官の人物、能力、思想その他について、苟くも裁判官として適任ならずと思われる点があれば、それによつて罷免を求める機会を国民に与えるのであるから、裁判上の意見は単にその重要事項の一つに過ぎない。国民大衆は必ずしも常に、裁判に関心を持つているものではないから、裁判官の裁判上の意見に最も重きを置いて、裁判官を判断するとは考えられないし、又審査制度もそのような要求をしていない。即ち裁判官の裁判上の意見を最も重要と考えるのは、法律専門家であつて、国民の多数は必ずしもそうでないと断ぜざるを得ない。従つて裁判官が裁判上の意見を自ら提供しないでも、委員会が施行令第二十七条第二項により、自ら調製する場合に該当するとはいえない。

(4) 又裁判官の裁判上の意見は、重要な資料の一つであるけれども、現在の審査公報に掲載する場合、他の事項と共にするのであるから、極めて簡単に記載しなければならない。審査法施行令第二十六条第二項にいう千字を超えない掲載文の中に、他の事項と共に裁判上の意見を、審査の資料たる程度に掲げることは、至難の業であつて、いきおい結論を記載する外ないこととなる。かくして裁判上の意見が掲載文の要件であるとすると、裁判官の意のあるところを充分に示すことのできない殆んど結論ばかりが現われることとなり、これによつて裁判官を判断することは危険であるとの見方も出来るであろう。或は審査公報にもつと充分の紙面を与えて、その意見を詳細に掲載せしめればできるではないかというかも知れないが、審査公報が唯一の資料ではないことと、紙面の問題は国費の問題であることからいつて、紙面を大きく提供すれば目的を達することができるという意見は、立法論又は政策に対する批判であつて、裁判上これを採り上げることはできない。

以上述べた如くであるから、原告のこれに関するその他の主張は、特に判断するまでもなくその理由がないことに帰着し、この審査公報によつて行われた今回の審査は、適法であると断ぜざるを得ない。

第四結論

以上それぞれのところで委しく述べた通りであるが、これを要約すると、

一、(一)原告の審査法が違憲立法であるという主張の一である、投票方法に関する理由は、憲法の規定に基いてそのために制定された審査法が目的としない可否不明の投票方法を要求するものであり、且つかくの如き立法は投票制度一般を通じて投票が公務である性質に却て背くものである。また強制投票の制度であるという独自の見解は、審査の投票に際して従うべき手続を定めた規定を、ことさらに強制と解することに基くのであり、或は従来わが国が行い来つた投票の実際にも全く即しない解釈に基くものである。さらに投票用紙の連記についての理由は、審査制度が一種の解職投票制度である性質に思を致せば、何等投票人の自由を侵害するものでないことが解る筈である。従つて又罷免を可としない裁判官については、何等の記載をしないという方式を定め、これを罷免を可とする投票と比較する方法を採つたことは、制度の本質からいつて、何等憲法の規定に違反するものではない。(二)さらに又その二の審査制度の本質に関する理由については、審査法は本来、憲法第七十九条第二項乃至第四項に定める解職投票制度の要求に従つた立法であつて、国民が罷免したいと思う裁判官を選定することを本旨とする。これを任命の可否を国民に問う制度と見るのは、本質に対する認識の誤りであるか、または単に用語の争に帰着すると認めざるを得ない。(三)なおその三である、訴の適法性と審査法との関係の理由については、本件訴が審査法自体に規定する適法の訴であることは原告の理由の一部を除き、結局結論において原告の主張と一致するから、審査法がこの点で違憲であるという主張は判断する必要がないこととなる。

二、(一)次に原告が違憲なりと主張する、今回の審査において行われた投票所における事実は、いずれもこれを認めるに足る立証がないか、或は棄権防止のための啓蒙運動又は注意に対する誤解である。(二)また審査公報は今回発行されたものの形式内容が、不充分であることは認めざるを得ないけれど、これを違法なりとまで断定することは甚しき行過である。さらに審査公報に記載すべき裁判官の裁判上の意見は重要であるけれど、これを欠くときは違法であるとするほど不可欠のものとはいえない。

要するに国民審査の制度が、わが国民にとつて全く新しい性質と手続をもつものであるため、また投票方法が解職投票制度の本質を一貫せず、他の性質を有する方式を附加したため、技術的にきわめて人心になじまない不明瞭な部分が存するに至つたことは認めざるを得ないが、これを攻撃する原告の理由は、窮極において審査法自体の立法技術を非難し、その改正を主張することに帰着するものと認めざるを得ない。従つて原告主張の理由は、本件訴の適法に関する理由の一部を除き、その他はいずれも採用することを得ないこととなり、被告代理人の主張のうち、本判決の理由に採用したところはいずれもその理由があることに帰着する。

依つて原告の請求を棄却すべきものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文の通り判決する。

(裁判長裁判官 小林俊三 裁判官 中島登喜治 裁判官 斎藤直一)

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